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小説『天使さまと呼ばないで』 第56話


コウタの再婚を知って以来、ミカの心にはぽっかりと大きな穴が空いてしまったようだった。


コウタと会った後の土日は、ずっと寝て過ごした。

たまにお腹が空くと、とりあえずポテトチップスやカップラーメンといったジャンクフードを口に詰め込んだ。


寝て過ごすと、勝手に時間が過ぎていくので楽だが、寝る直前と起きた瞬間が辛い。

自分以外誰もいないベッドに入るたびに、これからずっとこの小さな古いアパートで独りで暮らすのかと思うと、震えが止まらなくなる。

目が覚めるたびに、あの出来事が夢ではなかったのだという現実を思い出して死にたくなる。


ミカはコウタに対して、どこか高を括っていた。

結婚する前、ほとんど女性経験がなくオドオドしていたコウタが、まさか自分以外の女性と恋愛関係を築けるわけがないと心のどこかで思っていた。

だからコウタに再婚の事実を告げられた時はショックだったが、それでもまだ、心のどこかで、コウタはいつか自分の元に戻ってくるのではないかという期待をもっていた。

なんとなく、コウタは若くて可愛い女にたぶらかされただけなような気がしたのだ。

自分と出会った時、あれだけ口下手で女性に慣れていなかったコウタだ。そうであってもおかしくないと思った。

ショウだって、『女は20代までしか抱かない』と言って、年増の自分を馬鹿にしたのだ。コウタだって心の奥では若い女性がいいと思ってたに違いない。だから若い女に逃げたのだと思っていた。

だからミカは、そんなおままごとのような恋愛はきっと失敗するに違いないし、そうすればいずれ自分の元に戻ってくるだろうと思っていた。というより、そんな空想をしなければ自我が保てなかったのだ。

心のどこかで、自分はまるで愛する王子様を性悪な若い女に奪われた"人魚姫"であるような気がしていた。


だが、駅前のパン屋で見かけたコウタの再婚相手は、自分とほとんど年が変わらないか、少し年上にさえ見える"大人の女性"だった。

それに顔面のレベルで言えば多分自分の方が上だろうし、自分の方が胸も大きい。

また、コウタはその女性に変にデレデレとしたり、媚びたりせず、一人の対等な人間として尊重していることがはたから見てよくわかった。


それはすなわち、コウタは若さや見た目でたぶらかされたのはなく、成熟した男女として新しい妻と愛を深めていったということを意味した。


その事実が、どうにもミカにはショックだった。


コウタはもう、永遠に戻ってくることはないだろう。

ミカは自分の過ちで、本当に愛してくれた人を完全に失ってしまったのだ。



自分は、"王子様を奪われた人魚姫"などでは無かった。

ただ怪しげなビジネスと散財で夫に愛想を尽かされた惨めな女なだけだ。

コウタは若い女にたぶらかされた愚者でも、ミカを見捨てた悪者でもなく、ただ離婚してから"真実の愛"を見つけた善人なだけなのだ。

これがおとぎ話とすれば、再婚相手の女性こそがコウタにとっての"お姫様"だろう。そして自分はきっと意地悪で嫉妬深い魔女にしか過ぎないだろうとミカは思った。


全ては自業自得でしかないことが、ミカには痛いほどわかっていた。

悲しみ嘆こうにも、過去の自分の傲慢さと愚かさと後悔ばかりが頭に浮かぶ。自己嫌悪で気が狂いそうだった。



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月曜日、今日はユミコさんとの仕事の日だ。

朝起きて鏡を見ると、青白い顔で瞼だけが真っ赤に腫れており、目は普段の半分ほどの大きさになっていて、怪談のお岩さんのようだった。

本当はとても仕事ができる気分では無かったが、試用期間が終わったばかりだし、自分が休むことでユミコさんに迷惑がかかるのは嫌だと思い、無理して出勤した。


ユミコさんは出勤するなり、ミカの顔を見て驚いて言った。

「あら〜〜ミカちゃん!どうしたのその顔!?」

「あはは・・・ちょっと失恋しちゃって・・・」

力無くミカは答えた。

「失恋!そっか〜〜ミカちゃん若いからねぇ。若い時は色々あるもんよねぇ〜〜」

「あはは・・・それが、フラれた相手ってのが元旦那なんですよねぇ・・・」

「そうなの、ミカちゃんが戻りたくなるぐらい、素敵な旦那さんだったのね〜。でもこんな美人の頑張り屋さんを振るなんて、旦那さん見る目ないのねぇ」

「いえ・・・私が全部悪いんです。私結婚してた時はめちゃくちゃ嫌な女で。ワガママばかりで夫を困らせて。だから仕方ないことなんですけど・・・」

ユミコさんはミカの肩をポンポンと叩きながら言った。

「今はね、好きなだけ泣いたらいいと思うよ。たとえミカちゃんが悪かったとしても、ね」

思いのほか優しい言葉をかけられて、ミカは思わず泣きそうになった。

いつもは手分けしてモップをかける廊下を、ユミコさんの計らいで、今日はあえて二人でモップがけすることにした。

「私もねぇ、主人が亡くなった時は一年ぐらい、毎日泣いてたわぁ」

「え・・・ユミコさん、旦那さん亡くされたんですか」

ユミコさんは頷きながら言った。

「そう、10年前に。癌でね」

モップがけしながら、ユミコさんは続けた。

「けっこう前から体調は悪そうだったんだけど、主人は病院嫌いだったから、検査に行くのも面倒臭がってね。私も主人に文句言われるのが嫌で強く言えなかった。

気づいた時には、もう手遅れだった。

だから亡くなった時は、毎日後悔したわ。『無理矢理にでも、もっと早く病院に連れて行くべきだった』って。

最初の1ヶ月は、夜も眠れなかった」

いつもニコニコしているユミコさんが、珍しく神妙な面持ちでただ床を見つめていた。

「・・・素敵な旦那様だったんですね、きっと。そんなにユミコさんに想ってもらえるなんて」

「まあもちろんたまには喧嘩もしたけどね。でも30年も連れ添ったから、夫というか同志って感じだったかしらね」

「・・・ユミコさんは、どうやって立ち直ったんですか?どうやったら、過去の後悔が頭に浮かばなくなりましたか?」

「そりゃー、思う存分悲しんで底が見えたらね、『飽きる』から!」

「飽きる・・・?」

「そうそう、ある日突然、『ああもういいや、悲しむの飽きた!めんどくさい!』ってなるのよ。

後悔もね、まあ今完全に無いって言ったら嘘になるけど、これも運命だったのかなとか、あの時の自分は未熟だったから仕方がないよなとか、そういう風に受け入れられる日が来るのよ。

だからね、今はとりあえず、泣きたいだけ泣いて、悲しみたいだけ悲しんだらいいと思うよ」

ミカはため息をつきながらぐちぐち言った。

「あぁ〜でも、辛い、辛いです。私早くここから出たいです。早く元気になりたい。もっと楽しく幸せに生きたいです・・・」

「うーん、こういうのって、理屈じゃ無いからねぇ。近道や裏ワザなんてのも無いし。

自分でちゃんとその道を通り抜けないとね」

「道を通り抜ける・・・?」

「悲しみの道。トンネルみたいなもんよ。その道を進んでる間は真っ暗だけど、いつかはお天道様の下に出るでしょ?」

「うーん・・・」

「ミカちゃんはね、若いから、嬉しい楽しい〜っていう気持ちしか感じたく無いかもしれないし、それが幸せな人生ってイメージがあるかもしれないけどね。

でもね、この歳になって思うのは、悲しみも後悔もまた人生の彩りやスパイスになるってことよ」

そう言いながらユミコさんは手をパタパタと上下に振った。

「彩り・・・」

「ミカちゃん、チョコレート好き?」

「え・・・好きですけど」

「じゃあ、毎日朝昼晩の食事がぜーんぶチョコレートだけだったら嬉しい?幸せ?」

「いやそれは流石に・・・嫌ですね」

「それと一緒よ」

そう言ってユミコさんは笑った。

「でもね、別に今は無理に『悲しみも彩り!』とか『後悔も人生のスパイス!』なんて思わなくていいのよ。それは自分の心に嘘をつくことになっちゃうからね。

いつかきっと、わかる日が来るから。

今はただ、悲しいなって感じるだけで十分。あとは、ちゃんと栄養とって、早寝早起きして、あったかいお風呂に入ること!」

ユミコさんは人差し指を立てながらそう言った。

「なんだか小学生みたいですね」

ミカが笑うと、ユミコさんは言った。

「舐めちゃダメダメ!こういう基本的なことが本当に大事なんだから!」


そうなのかなぁ、と半信半疑だったが、とりあえず今日はユミコさんの言う通り、ちゃんと野菜たっぷりの料理を自炊しようとミカは思った。



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第57話につづく




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