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小説『天使さまと呼ばないで』 第57話


火曜日、今日はヒロコさんと仕事の日だ。


昨日はユミコさんのアドバイス通り、栄養たっぷりの食事を摂ることにし、夕飯には野菜をたっぷり入れた八宝菜を作って食べた。

そして温かいお風呂に入り、早めに布団に入って寝ることにした。

自分にこうして健康的な生活を用意することは、まるで親に庇護されていた幼い時を思い出して、なんとも言い難い温かさを感じた。


コウタのことを思い出して泣きたくなった時は、ユミコさんの言葉を思い出した。

今はね、好きなだけ泣いたらいいと思うよ。たとえミカちゃんが悪かったとしても、ね

思う存分泣いてもいいのだと思うと、それだけでなんだか心が軽くなった。


今日も朝起きると、またコウタのことを思い出して悲しくなったが、昨日よりは少しだけ、仕事に行く気力が出た。

鏡を見ると、まだ瞼は腫れぼったい。ミカは少し目元を冷やしてから出勤した。



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ヒロコさんとの仕事はいつも通り淡々としたものだったが、昼休憩の時に異変が起きた。

いつも昼食後は新聞か本を一人で読んでいるヒロコさんに、珍しく話しかけられたのだ。


「アンタ、振られたんだって?」

「えぇっ、どうして知ってるんですか」

「ユミコさんから連絡が来たから。『励ましてやって』って。昨日死にそうな顔で出勤してきたってさ」

ユミコさんは以前ヒロコさんとペアで仕事をしていた時期があるので、連絡先を知っていたのだろう。

「あーもう、ユミコさんったら口が軽いんだから〜」

情けなさと照れ臭さが入り混じった表情で、ミカは笑った。

だいいち、『励ましてやってと言われた』とネタばらししてから何か言ったところで、励まされるはずがないではないか。なのに正直にそのことを言ってしまうのが、なんともヒロコさんらしく、なんだか可笑しかった。


「そうなんですよ〜元旦那に復縁申し込んだら、アッサリ振られちゃいました」

ミカは自分の惨めさを誤魔化すために、わざと茶化して言う。

「ふぅん」

「ふぅんって・・・励ましてくれるんじゃ無いんですか!?」

思わず突っ込む。

「だってねぇ・・・私は別にどうとも思わないし」

何と正直なのだろう。確かに、ほとんどの人にとって他人の恋愛事情などどうでも良いことだ。

「・・・ヒロコさんは、失恋で落ち込んだことあります?」

「無い」

即答だった。

「すごい・・・!羨ましいです」

「すごくなんかないわよ。私は他人に興味がないだけ」

「ヒロコさんって、ご結婚されてるんでしたっけ?」

ずっと気になってたことを聞いてみる。本当は『ご結婚されてないですよね?』と言いたかったが、失礼と思われるかもしれないので、『されてるんでしたっけ?』と肯定形に変えておいた。

「昔一回したけどね。25歳の時に、お見合いで。でも2年もしないうちに別れた。他の若い女と一緒になりたいって言うから」

「えっ!?それは・・・お辛かったですよね」

そもそも婚姻歴があることが意外だったが、そのことは黙っておく。

「全然」

ヒロコさんはあっけらかんと答える。

「浮気性のくせに甲斐性も無いロクデナシだったからね。いなくなってせいせいした!子供がいなくて良かったわ、本当」

「でも、旦那さんのこと好きだったんでしょう?」

「いんや。親や周りが結婚しろってうるさいから仕方なく適当な人と結婚しただけよ。でもやっぱり時間の無駄だったわ」

『やっぱり』を強調してヒロコさんは言った。

「はー・・・」

ここまでドライな感覚は自分には無い。ただただ感心する。

「離婚する時も、親とか周りからはゴチャゴチャ言われたけどね。『浮気ぐらい笑って許してあげなさい』とか『いつか戻ってくるだろうから待ってなさい』とかなんとか。でも、親の言う通りにした結婚がうまくいかなかったんだから、もう言うことなんか聞くもんか!って突っぱねてやったわ」

「すごい・・・強いですね・・・」

ミカは親や前のパートのおばさんたちから、しきりに『子作りしろ』という圧をかけられたことを思い出した。

「だって自分の人生だもの。自分で選ばなきゃ」

「ヒロコさん、今も一人暮らしなんですか?」

「そうよ」

「寂しく感じることはないですか?」

「無い」

ヒロコさんはまたもや即答する。

「自分の食べたいものをいつでも食べられるし、行きたいところにもいつでも行けるし、見たいテレビも音楽も好きにつけられるし、今の暮らしが最高よ。再婚なんて死んでも御免だわ」

「あはは・・・流石、ヒロコさん強いですね」

「強いんじゃない。私にはこの暮らしが向いてるだけ」

「でも、いつか一人で死ぬと思うと、怖くないですか?・・・私はすごく怖いです」

この土日、孤独に怯えていたことを思い出す。

「何言ってんの、どれだけ家族が多かろうと、冥土に行く時は必ず1人よ。アンタが怨霊になって誰かを道連れにするなら別だけど」

その鮮やかな切り返しに、ミカは思わず吹き出しそうになる。

ふと、先程のヒロコさんの話が気になって、尋ねる。

「そういえば・・・さっき『親とか周りからはゴチャゴチャ言われた』っておっしゃってましたけど、離婚して色々と言われるの、辛くなかったですか?」

「どうして?」

「だって・・・私も結婚してる時、母や前の職場のパートさんから『早く子供を産め』とかしつこく言われたり、見下されたりして、すごくイヤでしたもん」

ヒロコさんは『何言ってんの、この子』というような表情を一瞬見せて、こう言った。

「そう言う人達はね、生活のどっかに不満をかかえてるだけよ。そんで、幸せを"定義"だと思ってんの」

「定義?」

「そう。『結婚している』とか『子供がいる』とかそういった定義の中にキレーに収まることが、幸せだと思ってんの。

そんで、本当は不満だらけのくせに、そこに収まってる自分達は幸せなはずだーって自分を洗脳してんの。宗教よ宗教。

本当に幸せな人は、子供がいようがいまいが、他人をわざわざ見下したりなんかしないわよ」

ヒロコさんは続ける。

「そういう人たちはね、"定義の外"にいる人を見下すことで、自分のほうが幸せなはずだーって安心しようとしてるだけ。

そんで、自分が抱えてる不満と向き合わないようにしてんのよ」

ヒロコさんの"定義"の話を聞きながら、ミカはユウコの話に出てきた"切符"のたとえを思い出した。

「だからそういう人達になんか言われたらね、『ああこの人はどっかしら不満のある人なんだー』って思って、ほっとけば良いのよ」

「・・・うーん、私そんなふうに無視できるほど、強くないかも・・・」

「じゃあ『その話題は傷つくのでやめてください』って言えばいい」

「えぇ、そんなこと言って、人間関係にヒビが入ったらどうするんですか・・・」

「その程度でヒビが入る関係の人間と、仲良くする価値ある?」

ミカはドキリとする。

「だいたいそういう人たちって悪気がなくて鈍感なだけだから、言えば辞めてくれるわよ。

もしそれでも辞めないなら、それは相手がおかしい。そんな時はね、もう関わるのを辞める。

自分を故意に傷つけてくる人間と、無理に仲良くする必要はないからね。

自分を守れるのは、自分だけなんだから」

そう言ってから、ヒロコさんはミカの目を見て人差し指を立てながら言った。

「それに、そんな人たちの言う通りにしたところで、誰も責任なんてとってくれないよ。

自分の人生の責任を取れるのも、自分だけ!」

ヒロコさんはさっと立ち上がってミカの肩を叩いた。

「ホラ、そろそろ休憩も終わりよ。立って立って!」

「はいっ」

ミカは慌てて立ち上がり、ヒロコさんの後について行った。



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ヒロコさんは業務中、ユミコさんのようにミカを気遣うことなく、いつもと同じように分担して作業を進めていった。

だが、今日はこうして一人で作業できるのがかえって心地よく感じる。色々と思考を整理できるからだ。

(それにしても・・・)

モップをかけながら、ミカは先ほどの、ヒロコさんの離婚話を思い出した。

(私、心のどこかで、『離婚した自分は不幸』とか『惨め』って思ってたけど、ヒロコさんにとっては離婚は全然"不幸"でも"惨め"でもないんだ・・・)

そう思うと、何だか不思議な気持ちになる。

どうして自分は、あれだけ自分のことを不幸で惨めだと思っていたのだろう?


それに、今まで自分が寂しくて孤独で陰鬱なものだと思っていた『一人暮らし』は、ヒロコさんにとっては『気ままな心地よい暮らし』ということも、ミカにとっては衝撃だった。


そう言えば確かに、自分はいつも孤独や老いや貧乏といったものに『怖い怖い』と思いながら生きていたけれど、いったいそれらの何が"怖い"と思っていたのだろう?


ミカは、ユウコの話をまた思い出した。


もし、どうやっても海が見えない時は、今の景色に目を凝らしてみるんです。そうすれば、草木の美しさを感じるようになるかもしれない。やっぱり山が見れて良かったなって思えるようになるかもしれない。


今の自分には、一体どんな景色が見えるのだろう。

ふと窓の外に目をやると、春らしく暖かい日差しがビル全体を優しく照らしていて、小鳥が飛び交っているのが見えた。



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第58話につづく


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