『代表以外』あるJリーガーの14年 #8 第3章 Stay Gold :その1
そこは、かつての『聖地』だった――。
JR大宮駅から徒歩15分ほどの距離にある大宮サッカー場。
高校時代、インターハイや選手権の県大会決勝という重要な試合を戦ったフィールド。
新潟への移籍が決まって以降、その地をホームとする大宮アルディージャといつ対戦するのかは、ずっと気になっていた。
両親と姉、小・中・高・大学それぞれの時代のチームメイト、レッズ在籍時のサポーター。
そういった、自分を応援してくれる人たちが最も見に来やすい場所での試合こそ、大宮とのアウェイゲームだったからだ。
「大宮との試合には絶対メンバーとして来てくれよ!」
さまざまな人から、そう言われていた。
2002年4月10日、J2第8節。
対大宮アルディージャ戦、宮沢は新潟へ移籍後初めての先発出場を果たす。
試合開始前、ウォーミングアップのために大宮サッカー場のピッチに入ったときには、ひとまずは期待に応えられた安堵感があった。
メインスタンドに顔を向ける形でストレッチをしていると、視界の端で、誰かが手を振っていることに気づく。
武南高校サッカー部時代の親友だった――自宅からその親友の家まで自転車を走らせ駐めさせてもらい、二人で最寄り駅まで5分ほどの道のりを歩いた。そこから電車を乗り接ぎ、1時間弱をかけて通学。放課後にハードな練習をこなしてから、彼と共に帰路に就く。
家に辿り着いて遅い夕飯をとり、なんとか風呂に浸かった後はもう泥のように眠るだけという毎日だった。両親はそんな長男のため、せめてもの手助けをと考えた。結果、当初は2階にあった彼の部屋は、玄関を開けてすぐ右手にある一室へと替えられた。
大宮サッカー場のスタンドに、その親友の姿を発見した宮沢は、
「彼女と一緒に行くから」
という連絡があったことをすぐに思い出す。
彼の隣に女性がいることを確認し、手を振る二人の姿に思わずニヤけてしまった。
もうひとつ、宮沢が心待ちにしていたことがある。
大学時代からの『相方』盛田剛平との対戦だ。
盛田と出会ったのは、大学3年に進級する直前の春休み。
関東大学選抜チームの合宿で、だった。
盛田は笑うと細くなる目が、その人の好さを感じさせる。
だが、黙ったままだと188㎝という長身とあわせ、見る者に威圧感を与えもする容貌の持ち主だった。
《なんか、怖いヤツだな》
それが盛田に対する宮沢の第一印象。
だが、同部屋になったこともあり、盛田の容貌から来る誤解はすぐに解けた。むしろ性格的には「ウマが合う」と評していい二人だった。
合宿が終わる頃には、宮沢がボケて盛田がツッコミを入れる関係ができあがる。
二人は奇しくも、大学卒業後そろって浦和レッズの一員となった。
彼らはチーム練習後、グラウンドに残って共にトレーニングをつづけた。宮沢が左からクロスを上げ、ゴール前でFWの盛田が合わせる。
その光景はいつのまにか、レッズの練習場にある『日常』となっていった。
練習場から車で数分の距離に建つ選手寮に戻ってからも、どちらかの部屋でテレビを見て、他愛もない話に興じ、同じ時間を過ごしていた。
彼らのプロ3年目となった2001年、盛田は浦和からセレッソ大阪に半年間の期限付きで移籍。残りの半年は、ふたたび期限付き移籍で川崎フロンターレの一員として過ごした。シーズン終盤、レンタル期間の延長や完全移籍の打診は川崎からは貰えず。
そして移籍元チームであるレッズとの契約は、宮沢と同様、満了となった。
その後、盛田は宮沢と共に新潟のセレクションに参加はしたものの、合格はできなかった。しかし、宮沢が右足首の不安を理由に回避した大宮のセレクションで、見事に次の『就職先』を掴み取っていたのだ。
2002年4月10日、J2第8節。
18時58分、審判団を先頭に大宮・新潟両チームの選手が入場する。
宮沢と盛田は、同じピッチに立った。
ハーフウェイラインを挟んでエンドこそ異なっていたものの、公式戦のピッチを共に踏むのはレッズ時代の2000年4月19日以来、ほぼ2年ぶりだ。
キックオフ直前、盛田が宮沢の方を見ながら、自身の腹の辺りをチョンチョンと指差す。
そこには『12』という数字がプリントされている。
宮沢の番号も『12』だった。
声は聞こえなかった。
それでも
「おんなじ番号だな」
と盛田が笑っているのがわかった。
心の中で笑い返して、
《モリには負けたくねえな》
と思いながら、キックオフの笛を聞いた。
宮沢がさまざまな思いを胸中に抱きながら臨んだこの大宮戦、しかしながら、チームは開始5分で先制を許してしまう。
その2分後にも失点。
早くも0-2と突き放される。
それでも、移籍後初先発を果たした宮沢のプレーは悪くなかった。
中盤の低い位置でボールを貰いに動いては、手数をかけずに味方へとボールをはたく。
そのシンプルさが、リズムを作り出していった。
はたくところがないときは、左足の裏でボールにタッチして方向を変え、相手のアタックを回避しつつ別の場所へとボールを逃がす。同時に、味方に対して出すところがない旨を身振りで示し、チームメイトたちの動きの活性化を促す。
堂々としたプレーぶりだった。
その日は、CKやFKといったプレースキックも宮沢に任されていた。
前半14分、ペナルティアークの右で新潟はFKのチャンスを得る。
自信はあった。
ウォーミングアップの際、似たような場所からFKを試したときの感触も悪くなかった。
大宮の選手3人が『壁』として立ちはだかる。
FKの位置はペナルティエリアのすぐ外、ゴールまで距離があるわけではない。コースに飛ばせば、スピードはなくてもGKの手が届く前にネットを揺らせるはずだった。
丁寧にボールをセットし、GKがタイミングを合わせづらいよう少ないステップから右足を踏み込み、ボールの左端をこすり上げる――その結果、右へと向かう――ようなイメージでインパクトした。
ボールは3人の壁のすぐ左を通ると、急激なカーブを描いてゴール右へと向かい、ネットを揺すった。
「っしゃあああっーーー」
拳を握り、天を仰いで吠えた。
チームメイトが一人、二人と追突するような勢いで抱きついてくる。
できあがった歓喜の輪の中心から抜け出してようやく、《ゴールを決めたら両手を天に突き上げるポーズを取ってやろう》と考えていたことを思い出した。
おもむろに両手を上げてみせはしたものの、まだ1-2で負けていることにすぐ思い至る。喜びに浸っている場合ではないと、自分を諫めた。
宮沢が初先発で記録したこの移籍後初ゴールは、前半7分で2点のビハインドを負っていたチームを生き返らせる。
新潟はペースを握り、優勢に試合を進めるまでになる。
しかし36分、同点とする前に1-3と突き放されてしまう。
決めたのは宮沢の『相方』、盛田剛平。
奇しくも、彼にとってもシーズンの初ゴールだった。
味方からのスルーパスに走り、GKが出てきたところを左足のつま先でつついての追加点。
結果的には、盛田が挙げたこの3点目が大きく戦況を左右することとなる。
再び2ゴール差とされた新潟には、早く点を取らなければという焦りが生まれた。宮沢自身も前へという意識が強くなり、急ぎすぎてボールを失う場面が増える。
結果、後半8分に新潟はさらに失点、1-4へと差を拡げられてしまう。
試合はそのまま推移し、30分、宮沢は交代でピッチから退く。
その後スコアは変わらないまま、終了の笛を聞くこととなった。
シャワーを浴び、着替えを済ませ、取材陣が待ち構える「ミックスゾーン」と呼ばれるエリアに出る。
ミックスゾーンの形は、各クラブのホームスタジアムのつくりによって変わってくる。
大宮のそれは、選手と報道陣の間が胸の高さほどのプラスチック製の柵で仕切られたものだった。両者はその柵越しで取材する側・される側となる。
大宮サッカー場の場合、報道陣用スペースの5~6メートル後方が公道に面している。柵と警備員を挟んだそこには、大勢のサポーターが目当ての選手をひと目見よう、ひと声かけようと二重三重の人垣を作って待ち構えていた。
「ミヤー!」
宮沢が姿を現すと、サポーターの声のボルテージはひと際増した。
ホームチームの選手ではないにもかかわらず、大きな声援が飛ぶ。
地元出身ならではだった。
うれしさと照れくささが混在した笑みを浮かべて、声のあがった方向にチョコンと頭を下げながら、報道陣の方へと足を向ける。
吸い寄せられるように、4、5人の記者が寄って来た。
4、5人とはいっても、新潟で出場した過去2試合とくらべれば段違いに多い。
新潟メディアにとってみれば、初先発でゴールを決めた宮沢はその日の最も大きなネタであり、当然のことと言えた。
だが、集まってきたのは新潟側のメディアだけではない。
数年前から宮沢が見知っている埼玉の地元メディアの人間も複数いた。
久しぶりに会う顔に笑いかけてから、向けられた質問に答える。
「FKは『入れたい』という一心で蹴りました。点が取れたのは自分の結果としてはよかったけど、たとえばそれでチームがラクになるとか、チームの勝ちにつながるような点を取りたいです。いくら点を決めても、勝たないと、心の底からは喜べないですね」
この日、前節につづきチームは敗れた。
8節を終えて2勝3分け3敗。
12チーム中の7位。
全44節のリーグ戦ははじまったばかりで、まだまだ悲観するほどのものではなかった。
しかしながら、開幕戦と第2節で勝利した後は6試合未勝利。その結果は、選手たちの胸の内に大きな影を落としてもいた。
宮沢も同じだ。
未勝利がつづいたからこそ、チームはこの大宮戦で状況を打破する必要があった。そのための攻撃面でのアクセントと期待して反町が切ったカードこそが、自分だったはずだ。
しかし結果は敗戦。
それを考えれば、FKでのゴールは、監督の期待にかろうじて応えた、いわば《プラマイゼロぐらい》の気持ちだった。
集まった報道陣に対し、そんな自分の心境を言葉にする。
「アピールは点だけですね。
途中で代えられてるようじゃ、まだまだ。
監督に『最後までやらせてみたい』って思わせる選手になりたい。
監督からも、チームからも、いろんな意味で信頼されるようになりたいっすね」
バスに乗り込み、自分の席に落ち着くと、宮沢は様々な顔を思い浮かべた。
かつてのチームメイト・友人たちだけではなく、レッズ時代からのサポーターやクラブスタッフの中にも、この日の試合を見に来てくれていた人がいたはずだ。そのことは、事前に連絡をもらって知っていた。
浦和で振られていた自分を応援してくれる大きな旗が、大宮サッカー場のスタンドでも同じようにたなびいていたのも目に焼き付いている。
赤・白・緑の地に、黒い江戸文字で『宮沢』と大きく記された旗――。
そのデザインは、宮沢の実家がある埼玉県北葛飾郡庄和町(現・春日部市)で毎年5月に催される『大凧あげ祭り』で使用される凧の伝統的な意匠を踏襲したものだ。
レッズに加入した年、地元のサポーターが作ってくれていたのだ。
そのレッズとの訣別を宣告されたのは4ヶ月半前――。
浦和レッズという『故郷』を、良い思い出ばかり抱えて出てきたわけではない。
それでも、埼玉に戻ってみれば、やはり『故郷』は悪くないものだなと思わされた。
「ミヤー、ミーヤー」
バスのガラス窓を通し、今も自分を呼ぶ声が聞こえる。
その声の主たちが、浦和時代からのサポーターだけではないことも、わかっていた。
バスに乗り込むまでの間に、新潟のユニフォームに身を包んだ人たちが少なからずいたことは、しっかりと見えていた。
数分後、バスは大宮サッカー場を後にする。
試合に負けた悔しさは、まだ鮮烈に身の内にある。
それでも、座席に背を埋め、あらためて思い出していた。
試合後の挨拶の際、新潟サポーターが送ってくれたコールを――。
「ミヤザワッ、ミヤザワッ、ミヤザワッ」
いまだ耳の奥に残る彼らの熱いコールを反芻しながら、こう思った。
《新潟に来てようやく、たしかな一歩を記すことができたんじゃないか》、と。
(第3章 その2へつづく)
※トップ画像 撮影:甲斐啓二郎
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