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『代表以外』あるJリーガーの14年 第1章 契約満了 その1

 2001年12月5日、埼玉県さいたま市にあるJR大宮駅。
 そこで、浦和レッズに所属する宮沢克行はこれから道行きを同じくする面々と合流した。
 川崎フロンターレの盛田剛平、小島徹、浦田尚希の3人だ。
 盛田と小島は浦和レッズの元チームメイト。浦田は高校時代の、2学年上の先輩だった。

 4人の行き先は新潟。

 現地での目的については、誰も積極的に話そうとはしない。
 上越新幹線の車内では、他愛もない日常会話で到着までの1時間半ほどをやり過ごした。

 昼過ぎ、新潟駅に降り立つ。
繁華街へとつながる万代口とは逆側・南中央口を出て、タクシーのりばへと向かった。
 上空はどんよりとした鉛色の曇り空に覆われている。埼玉よりも随分と寒い。
 客待ちをしているタクシーの列の、先頭の1台に手を挙げて後ろのトランクを開けてもらうと、4人はそれぞれ肩からぶら下げていた大きめのスポーツバッグを収めた。
 宮沢が右肩に下げていた黒いスポーツバッグには、レッズで使用していたトレーニングウェア類一式のほか、取り替え式と固定式のスパイクが1足ずつ、加えてランニングシューズも詰め込んであった。
 助手席に1人、後部座席に3人が収まると、運転手に行き先を告げる。

「鳥屋野(とやの)球技場までお願いします」

 そこで、J2アルビレックス新潟のセレクションが行なわれることになっていた。

 プロ3シーズン目を終えようとする宮沢が、浦和レッズのクラブ事務所で契約満了の通知を受けてから8日後のことだ。

 明治大学を卒業した宮沢がレッズに入ったのは1999年。
 ルーキーのその年はJ1リーグ戦3試合に出場しデビュー戦で1得点を挙げたものの、チームはJ2に降格。
 翌2000年は、宮沢がトップとサテライトの間を行きつ戻りつしているうちにチームはJ2最終節を迎え、土橋正樹の劇的なVゴール勝ちでかろうじてJ1復帰を果たしていた。
 1年目の残留争いでも2年目の昇格争いでも、チームの一員としての貢献を実感できないままに、その2年間は過ぎ去っていた。

 迎えた3年目――。

《もし今年、試合に出られなければ、来季の契約はないだろうな・・・・・・》。

 そう覚悟を決めていた。
 大卒選手の4年目を待ってくれるほど、Jリーグは甘くない。
 もちろん、よほど素質を見込まれていれば話は違ってくるのだろうが、少なくとも、自分がそういう対象として見られていると楽観的に思えるような事実は皆無だった。

 案の定というべきか、シーズンがはじまってみると自分のチーム内序列は過去2年間と大差ないもの。
 夏の終わりには《来年、自分はここにいないだろうな・・・・・・》と思わざるをえなかった。その頃には、監督が使う選手と使わない選手がはっきりするからだ。

「試合に出られるところに移籍したい」

 そんな思いを、気の置けない友人にこぼした。
 あるいはより現実的に、信頼できるクラブ関係者にぶつけ、大学時代の恩師にも相談した。
 しかしシーズン途中での移籍はかなわないまま、季節は夏から秋へと移り、宮沢は1試合のベンチ入りも果たせぬうちにプロ入り3年目のリーグ最終節を迎える。

 
 携帯電話が鳴ったのは11月24日、最終節を終えてから数時間後のことだ。
 手にした携帯電話、ディスプレイのバックライトに照らされ、チーム管理部――いわゆる『強化部』――の担当者名が浮かびあがる。

 その電話には、選手たちによって『呼び出し』という隠語が付されていた。

 クラブ側が来季の契約を結ぶつもりがない選手にだけ寄越してくる連絡――Jリーガーたちの契約期間は、単年契約ならば2月1日から翌年の1月31日まで。クラブ側が契約更新を望まない場合、契約が切れる60日前となる11月30日までにその旨を書面で通知しなければならず、その通知書面を渡すアポイントを取るためのものだった。

《……やっぱり来たか……》

 胸のうちでつぶやき、電話に出る。
 「契約」や「満了」といった決定的な言葉を聞かされることはないまま、ごく短い事務的な会話だけが交わされ、面談の日時は決まった。
 3日後の11月27日午後――宮沢はクラブ事務所を訪れた。
 事務所はJR浦和駅から徒歩数分の距離にある、4階建てのビルの2階。
 1階のテナントには『RED VOLTAGE』という名のオフィシャルグッズショップが入っており、レッズの赤い意匠が表通りに向けて前面に押し出されている。
 ビルの地下駐車場に銀色の三菱パジェロを停め、宮沢はエレベーターで2階の事務所へと上がった。
 自身の来訪を告げてしばし待った後、選手との契約を担当するチーム管理部の中年男性とともに再びエレベーターに乗り込む。
 互いに無言のまま1階へと降りた。
 
 『契約満了』を言い渡される場所は、1階のグッズショップ裏手、16畳ほどもある長方形の一室。
 足元にはグレーのカーペット、四方は白い壁に囲まれ、壁際にはキャスター付きのホワイトボードが置かれている。
 そして部屋の中央、8割近いスペースは折り畳み式の白い長机をつなぎあわせてできた『島』で埋められ、20脚近いグレーの椅子が取り囲んでいる。
 典型的な、会社の会議室だ。

 それはサッカーを生業とする者にとって、普段の生活からひどくかけ離れた種類の場所でもある。

 そのことが、これから聞かされるはずの話が非日常の部類に入るものだということを痛感させた。
 担当者に促され、テーブルを挟んで向かい合う形で腰を下ろす。
 まもなく若い女性社員がお茶を運んできてくれた。彼女が退室すると、机の上にA4サイズの紙が1枚、「パサリ」と音をたてて置かれた。

『契約更新に関する通知書』

 そう題された用紙の左上には、『宮沢克行 殿』と宛名があった。
 『殿』は活字で、『宮沢克行』の4文字はペンで書き入れられている。
 以下、次のような文章が並ぶ。

『貴殿と当クラブとの2002年2月1日以降の契約条件について、以下の通りご通知申し上げます。
(1)来年2月1日以降、下記の条件をもって貴殿と『プロA契約』を締結したい。
(2)来年2月1日以降、下記の条件をもって貴殿と『プロB契約』を締結したい。
(3)来年2月1日以降、下記の条件をもって貴殿と『プロC契約』を締結したい。
(4)来年2月1日以降、貴殿と契約を締結する意思はありません。』


 宮沢の見ている目の前で、対面に座った男が手にしたボールペンで『(4)』のところを丸く囲む。1度では終わらず、2度3度と、手慰みのように歪んだ円が描かれる。
 グリグリと動くペン先に、自分の胸をえぐられているような錯覚を覚えた。

《あぁ、俺はこの程度の待遇の選手なんだな。面談する前に書類をちゃんと用意してももらえない、この場でササッと書かれてしまう程度の……》


 自分の立場を自嘲的に再認識した直後、契約書のある箇所が目に飛び込んできた。
 心臓を鷲掴みされたような気がした。

 そこには、今シーズンの契約内容と来季の契約内容が対比されて記されている。

『現在の契約の内容』として『金 ―― 万円』という現在の契約金額が。
 そして、その右隣には『新規の契約の内容』として、こう書かれていた。

『金0円』

 0、ゼロ、零――。

 こんな日が訪れるだろうことは、夏が終わるころには予想していた。
 心の何処かで予行演習は重ねたつもりで、覚悟してこの場に座ってもいた。
 しかし、自分は要らない選手なんだと数字で明示されるのは堪えた。
『0』という数字がそのまま、自分の存在意義なのだと思わされた。
 一気に血の気が引き、まもなく反動のように、血液が体中の隅々まで駆け巡りだすのを感じた。自身の鼓動がうるさいほど耳に響き、体が火照るのがわかる。
 叫び出したい衝動をなんとか抑えていると、対面に座る男の言葉が追い打ちをかけてきた。

「今のところ、他のチームからのオファーもないな」

 もしかしたら、他のクラブから誘いがあるのではないか――。
そんな希望的観測があったからこそ、『呼び出し』を受けてからの数日間、なんとか平静でいることができてもいたのだ。
 
だが、現実は予想していた以上にシビアだった。
 楽観的な可能性で築かれていた宮沢の足下は、その言葉であっさりと崩れ去り、奈落に突き落とされるような感覚に襲われる。
 それでも、まったくの無言になってしまうのは惨めでやりきれず、声が震えないようにと意識しながら絞り出した。


「……そうですか……」

 しばらくの間、無言の時が流れる――。

《まだプロサッカー選手でいたい。このまま終わりたくはない》

 その思いだけで、なんとかこう切り出す。

「次のチームを探すのに、レッズは何かしてくれるんですか。たとえば、他のクラブに自分を売り込んでくれるとか、そういったことは・・・・・・」

「まあ、やるだけはやってみるけど・・・・・・」

 気のない返事の後に聞こえてきたのは、
「セレクションを行なうチームがいくつかあるから、それに参加してみる手もあるぞ」
との助言だった。

 セレクションの日程は、2階のクラブ事務所に行けばわかるという。
 それを潮に、面談は終了。
 出されたお茶に手をつけることもなく『会議室』を辞すると、事務所へ上がってセレクションの日程、申し込み方法について他のクラブスタッフから説明を受けた。
 
 J1に移籍することは考えていなかった。
 恐らく見込み薄だろうし、仮に移籍できたとしても、待っているのは浦和で過ごした3年間とさほど変わらない現実だろうと考えてのことだ。
 必然的に、選択肢は下のカテゴリーであるJ2に絞られた。
 興味のあるJ2クラブのセレクション日程を確認し、手帳に書きとめていく。ちなみに、Jリーグが主体となってのトライアウトが実施されるのは、翌2002年のシーズン終了後からだ。


『山形 12/3締め切り  12/10実施
 新潟 11/30締め切り  12/5・6実施
 湘南 12/3締め切り  12/7実施
 大宮 12/8締め切り  12/12(1次)実施、13(2次)実施』


 セレクション参加に必要な書類に記入すれば、その後の申し込み手続きはクラブ事務所がやってくれるという。
 書類に記すべき項目は、どのクラブのものも大差なかった。
 名前と生年月日、身長・体重、ポジション、そしてセールスポイント。
 
 セールスポイントに何を書くか、しばらく考えてから、箇条書きの形でふたつ記した。

『 ● チーム全体のことを考えて動くことができます
  ● 左足のパスには自信があります 』

 数枚の用紙を書き終え、「これ、お願いします」と社員に手渡し、事務所を後にした。
 エレベーターで地下の駐車場に降り、運転席のシートに身体を沈めると、ようやく少しだけ落ち着くことができた。

《くよくよしてる場合じゃない。切り替えないと――》

 移籍先を探すなら、早ければ早いほどいい。
以前に契約満了となったチームメイトたちからもそう聞いていた。
 


その後の数日は、これまでと同様レッズの練習に参加した。
それ以外の時間には、大学時代の恩師やかつてのチームメイトに電話をかけ、ときには直接会って相談に乗ってもらった。
練習の合間にいわば「就職活動」をしていたわけだが、就職活動の合間に練習に参加していたという方が、そのときの宮沢の感覚に近かった。
 サッカーに夢中になって以来、常にボールを蹴ることが生活の中心となっていた宮沢にとっては、異例の数日と言えた。

 宮沢が煩悶しながら次の移籍先を見つけるために奔走していた間、日本サッカー界は翌2002年に迫ったFIFAワールドカップ・コリア・ジャパンの話題で持ちきりだった。
より正確に記せば、日本サッカー界のみならず日本中が、だ。
 宮沢が『呼び出し』の電話を受けてから1週間後の12月1日には、韓国・釜山コンベンションセンターで組み合わせ抽選会が開催された。
 日本からドロワーとして参加したのは、レッズに所属する井原正巳。
タキシードに身を包んだ井原の姿と抽選会の模様は、NHKによってリアルタイムで日本全国へと届けられた。
 翌12月2日のスポーツ紙は、日本がベルギー、ロシア、チュニジアと同じ『グループH』に入り、初戦は6月4日、埼玉スタジアムでのベルギー戦に決定したことを、大々的に報じた。
 宮沢が、新潟でのセレクションのため大宮駅へと向かうのは、この組み合わせ抽選会から4日後のことだ。

(第1章 その2へつづく)

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