ドラマ版「ハンニバル」のススメー「超越」と「畏怖」

お疲れ様です。

以前、以下の記事で映画「ハンニバル」の魅力をたっぷりと語った。

そして、今はドラマ版「ハンニバル」をシーズン2まで視聴した。
マッツ・ミケルセンが演じるハンニバル、はっきり言って凄まじかった。
映画ではアンソニー・ホプキンスが完璧に演じたハンニバル・レクターを、これほどまでにリスペクトし、更なる境地へと至る演技、そしてシナリオ、圧巻。

ということで、ドラマ版「ハンニバル」の魅力と考えたことを書き記したい。
ネタバレはしないよう心がけたので、観たことない人にも読んでほしいし、読んだらドラマ版「ハンニバル」を観てほしい。

ドラマ版「ハンニバル」の魅力、それは「超越」と「畏怖」という言葉がキーワードだと思う。
映画で描かれたレクター博士や物語は「狂気」という言葉なしでは語れない。
そして、その「狂気」こそが最大の魅力だった。
ドラマ版でもその「狂気」は継承され、シーズン1では主人公ウィルが様々な「狂気」へと介入していく。
ただ、驚くのはシーズン2。
ここでももちろんレクター博士や凶悪犯、そして主人公による「狂気」が描かれ、最終話に向かってレクター博士の逮捕が画策されていく。
そのレクター博士の逮捕へ向かう主人公ウィルの作戦、これがあまりに狂気的だ。
ネタバレになるので具体的な作戦については省くが、主人公がレクター博士を捕まえるためにやったこと、あれは「超越」としか言いようのないものだった。

そもそも、一般的に「狂気」とは「良識」や「道徳」という社会的規範を逸脱した、外側のもの。
「狂気」とは常に恐ろしく、不快なものだが、その恐ろしさはあくまで社会的規範という尺度によって測られる。
人を殺してはいけないから人殺しは恐ろしく、性的なものは自重しなければならないから露出狂は気持ち悪い。

だが、レクター博士はすでに「狂気」を「超越」している。
どういうことかというと、何度も劇中で繰り返されるレクター博士による殺人とカニバリズムを観ているとわかるように、彼にはそもそも社会的規範というものがない。
それは、社会的規範を理解していないとか捨ててしまっているとか、そういった意味ではなく、彼は純粋に興味があるから人を殺し、その肉を食らう、ただ純粋にそう在るのだ。
もはや彼に「狂気」ー「社会的規範」、「善」ー「悪」という二項対立は存在しない。
そして、彼を測るものさしもない。
こうした人物を逮捕する、つまり、自由を奪うことは決して容易なことではない。
だから、ウィルは行動する…自らも同じ次元へ到達するために。
FBIという正義、「善」、「社会的規範」の組織にいながら、それらを「超越」していく。
全てはレクター博士の逮捕のために。
この「超越」という行為の危うさ、そして、混沌。
シーズン2ではその一部始終を観ることになる。

そして、「畏怖」というキーワードについて。
主人公ウィルが「超越」を行う中で、レクター博士は常に彼の傍にいる。
レクター博士と同じ頂に立つために行動するウィルを観ていると、レクター博士が生きる次元の異質さがじわじわと際立ってくる。
そう、これこそが「畏怖」。
もはや、レクター博士に対して狂気的だとか恐ろしいだとか、そんな言葉が似つかわしくないことが物語が進むにつれてわかっていく。
彼は「畏怖」を放つ人間だ。

以前、奈良の東大寺へ行った。
初めてみた東大寺南大門、彼女とすごいねと大きいねと言いながらくぐろうとしたときだった。
南大門の内側、両サイドの日陰の闇の中に巨大な金剛力士像が2体立っていた。
金剛力士像自体は本でしか観たことがなかったが、初めて実物を目の当たりにしたとき、最初に足がすくむような感覚になった。
大きいとか、すごいとか、かっこいいとか、怖いとか、そんな言葉が頭に浮かぶが、どれもが似つかわしくない。
金剛力士像の圧倒的な存在感、いや、「圧倒的」という言葉すらチープだ。
金剛力士像を形容するとすれば…「畏怖」としか言えなかった。

シーズン2の最終話ラスト、最後のレクター博士はまさに「畏怖」を漂わせる。
レクター博士の存在を形容する言葉は、どんな言葉もチープになってしまう。
鑑賞している間、ずっと鳥肌が止まらなかった。

この「超越」と「畏怖」は映画版ハンニバルシリーズでは描かれなかった。
ドラマ版ハンニバルを作った人は本当にすごい、レクター博士を徹底的に掘り下げ、その物語をより深淵へと落とし込んでいる。

まだ観たことない人は幸せ者だと思う。
これからその深淵を初めて覗き込むことができるのだから。

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