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【『孤狼の血 LEVEL2』評論/映画評論家・森直人】

ヤバくて明るい「東映ユニバース」(©轟夕起夫)の未来


文句なしに面白い。シンプルに、すごく面白い。『孤狼の血 LEVEL2』は強い「形式」の中で、色気と殺気に満ちた「役者」が蠢き、高性能な「演出」が祭りのように沸騰している。娯楽映画としてこれ以上、これ以外のものは必要ないのではないかと思える。

まず前提として確認したい。
2018年の『孤狼の血』はまさに「目からウロコ」だった。
この画期作は筆者にとって、デイミアン・チャゼル監督のミュージカル映画『ラ・ラ・ランド』(2016年)と「意味するもの」は同じである。つまり20世紀の映画遺産(ミュージカル/東映実録路線)のジャンルや形式総体を研究し尽くして、「これ一本」でアップデートしていること。それをフリーランス出身の白石和彌監督が、本家の東映で継承・復活させたことに感動した。ヤクザ的に言うと、正式に「盃を貰った」ってやつだ。筆者は東映分家としての「白石組」を任されたこの監督を全力で賞揚する立場である。

蠱惑的なナレーションから始まる『孤狼の血』が改めて証明したのは、東映の実録ヤクザ映画が「発明」したフォーマットの圧倒的な強度だ。
1973年の深作欣二監督『仁義なき戦い』から始まって、77年の同監督『北陸代理戦争』でひとつのピリオドを迎える黄金のスタイル。なぜこの日本独自の「発明」を映画界は長らく本格活用しなかったのか?

『孤狼の血』の達成において、往年のテンプレートの「借り物」という表面的な批判はまるで当たらない。例えば豚小屋のムゴいシーンは佐藤純彌監督のハードコアな怪傑作『実録・私設銀座警察』(1973年)を彷彿とさせるなど、白石和彌監督がこのジャンルに本気で深く通じていることは明らかだ。
愛する映画ルーツのコードに則り、自分の曲を鳴らす。つまりマーティン・スコセッシのギャング映画が、1930年代の初期ワーナー映画などの教養をベースにしているのと何ら変わりない。

今回の『孤狼の血 LEVEL2』は前作から3年。柚月裕子の原作小説から一旦離れ、オリジナルストーリーとなる続編だ。殉職した大上(役所広司)の血を受け継ぎ、松坂桃李演じる日岡――「広島大学卒のエリート新米刑事」だった彼が孤狼のマル暴ダーティ刑事に変貌して、堂々センターを務める。

時代設定は重要である。『孤狼の血』は1988年(昭和63年)。『孤狼の血 LEVEL2』は1991年(平成3年)から1992年(平成4年)3月の暴対法(暴力団対策法)施行まで。つまりヤクザ映画の様式やリアリティが成立する最後の時期だ。

現実社会では、ヤクザ相手に法律を武器にして戦う民事介入暴力(民暴)弁護士のヒロインを描いた東宝映画『ミンボーの女』が1992年5月に公開され、伊丹十三監督が某暴力団の組員たちに自宅近くで襲撃される事件が起こる。それ以降の「ヤクザのリアル」に関しては、東海テレビ製作の『ヤクザと憲法』(2015年)という傑作ドキュメンタリーが伝える。大阪市西成区の指定暴力団・二代目東組の二次団体である二代目清勇会を取材したものだが、ここには最低限の国民の権利すら剥奪された社会的疎外者としてのヤクザが赤裸々に記録されていた。西川美和監督の『すばらしき世界』(2020年)や藤井道人監督の『ヤクザと家族 The Family』(2021年)も、同じの主題のラインにある。

対して、ジャンル映画としてヤクザ映画の本格蘇生を志す白石和彌監督が選択したのは、真っ当にも「リアリズムに基づいた近過去コスチューム・プレイ劇」だと言える。おそらくヒントになったのは『ダークナイト』(2008年/監督:クリストファー・ノーラン)と『ジョーカー』(2019年/監督:トッド・フィリップス)だろう。

鈴木亮平扮する上林がジョーカー。サイコパス的な殺人鬼ヤクザで、子供時代のネグレクトがトラウマとなっている。そして自ら信じる「正義」のためにグレーゾーンで動く日岡は、バットマン。普遍的なパワーゲームと倫理にまつわる「世界構造」を、白石和彌は本作で鮮やかに描いた。

役者たちは、本当にいい。
破滅していく在日韓国人の20歳の青年チンタを演じた村上虹郎は、現時点で彼の最高だろう。『仁義なき戦い 広島死闘篇』(1973年)の川谷拓三的な下っ端の無残な悲哀。
警察側では瀬島役の中村梅雀が筆者は大好き。皆がキバっている中で、ひとりだけ力が抜けているのが逆に強者感を醸し出す。ほとんどコメディリリーフな中村獅童の昭和的な不良新聞記者・高坂も最高にチャーミングなキャラクターだ。なにかと窮屈な世の中だが、彼らのおかげで「東映ユニバース」(轟夕起夫氏の名言)の未来はヤバくて明るい!