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学生寮のピンク電話の話

 私が2018年3月まで住んでいた学生寮には古い共用の電話があった。昔の喫茶店にあったようなピンク色の電話で、一般の公衆電話のように小銭を入れて使うようになっている。昔は寮生がよく利用したようだが、苦学生であっても携帯電話を持っている者がほとんどの現代では誰も使う者がいなかった。

 この学生寮は大学当局とは切り離された自治寮であったために非常に安く暮らせたが、その分環境は常識離れして悪く、度を越して貧乏な学生以外に住む者はいない。寮生は念々減少を続け、人が減れば自治が行き届かず、環境が悪化する。環境が悪くなると一層寮生が集まらない。私が卒業する時には200人収容可能な寮に7人しか残っておらず、またその7人も私とほとんど同じタイミングで卒業していった(たしか数名半年単位で留年していたため、夏まで在寮していた)。廃墟同然で近在の学生が肝試しに来るほどであった。

 元々使う者のいないピンク電話だったが、忘れた頃に鳴るのが不思議だった。ジリジリと大きな音で、古い電話によくあるあの着信音が鳴るのである。鳴る時間はまばらで、夜中に突然鳴ることもしばしばあった。電話が設置されている一階には私しか住んでいなかったので何度となく私は電話に出ようとしたが、大抵の場合廊下へでて受話器を取る前に鳴りやんでしまう。ある日の昼間、一度だけ、私は電話が切れる前に受話器を取ることに成功したが、呼びかけても受話器からは僅かなノイズが流れるのみで、誰も応答しなかった。以来一度も受話器をとることが出来なかった。故障なのか、と思ってその後はあまり気にせず過ごした。

 私と私の仲間がようやく卒業を決めた2018年の3月、大学の部室に夜更けまで残って数名で酒を飲んだりホラーゲーム(零シリーズのどれかだった)をして過ごしていた時、この電話のことを急に思い出した。皆にこの話をしているうちに、あの電話はいったい誰がかけてきていたものなのか、気になりだした。何人かの仲間を誘って、そのまま肝試し気分で寮に向かうことにした。

 手始めに我々は荒れ果てた一階の委員長室を漁り、昔の寮祭の冊子を手に入れた。冊子には寮の電話番号が書いてある。仲間の一人の携帯電話でダイアルすると、ピンク電話がジリジリと音を立てた。私が受話器を取ると、受話器の向こうから友人の声がした。友人が電話を切ると、受話器からは不通を知らせるツー、ツーという音がした。今度は私がピンク電話に小銭をいれ、友人の携帯電話にダイアルしたが、この場合でも問題なく通信できた。電話を切ると、ツー、ツーと通信終了の音。故障はしていないことがわかったが、それ以上にすることも思いつかず我々はなんとなく気勢をそがれて部室に戻った。

 帰り道で私は考えた。ピンク電話は受話器を取ると、ツー、ツーと音がした。電話をかける前も、電話を切られた後もそれは同じだった。それでは以前に私が、突然鳴った電話を取った時、ノイズだけが聞こえていたのはなんだったのか。電話の故障でなければ誰かのいたずら電話だったのだろうか。しかし少なくとも最後の一年間、私の知る限りその電話を取った人間はいない。誰も出ない電話にいたずら電話をかけ続ける人間がいるだろうか。いたとして、それはいったいどんな人間だったのだろうか。

故障でなければ、私が受話器を取った時、誰かが受話器の向こうで息をひそめていたことになると思うのだが、いったいどういうつもりで私の声を黙って聞いていたのだろうか。

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