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世界が終わる日と拡張する世界との距離感について

世界の終わりを感じて、眠れなくなる日があった。
それなりに頻繁に。もう、15年以上前の話だ。
その世界の終わりは私の側で密かに存在していた。

    世界の終わりの風景は様々だ。核爆弾が落ちてくる、戦争がはじまる、謎のウィルスで人類が滅亡する、大地震が起きる、急になにもかも無くなる。私は神様の頭の中の登場人物で神様から忘れ去られて消えてなくなる。そんなことも考えた。
    そんな世界の終わりを想像しながら、まだ死にたくなくて、自分の力の及ばない大きな力に恐怖して、ひとしきり泣いて、眠れなくなった。


    そんなことを想像しなくなったのはいつからだろう。
    好きな小説のジャンルがファンタジーから現代小説へ移行した頃かもしれない。今でも大好きなファンタジー小説が、人はみんないつか必ず死ぬ、ということを教えてくれてからかもしれない。ディストーションのかかったギターの音をよく聴くようになってからかもしれない。
    世界の終わりを感じて眠れなくなる日は無くなった。


    最近、私の世界が広くなったな、と感じる。
    自分一人で行ける場所が増えた。知り合いが増えた。知識が増えた。経験も増えた。一人で新幹線にも飛行機にも乗れる。行こうと思えば国境を越えることも出来る。インターネットは別の国の人と簡単に接触することができるし、知らない言葉を検索窓に打てばコンマ何秒で答えが表示される。

    自分の世界が広がったのに、その世界を遠く感じるのは何故だろう。

    小さい頃に想像していた世界の終わりのような映像を見る。世界の終わりみたいだ、と思う。けれどもそれは遠く離れた世界の話であって、私には影響を及ぼさない。だから私はぐっすり眠れる。
    その世界は手を伸ばせば届く距離に存在している。明日その場所へ行こうと思えば行ける距離だ。

    私の世界が広がるにつれて、世界はどんどん私から遠ざかっていく。小さい頃に想像していた名前も知らない国、土地、日本のどこかの方が切実で近かった。
    テレビやスマホの向こうのその世界は、私の訪れたことのない土地だ。そこで食べられている物を想像する。着ている服。気温。湿度。そのどれもが私の想像に過ぎない。

    小さい頃のその世界とこの世界、何が異なるというのだろう。

    何が存在していて、何が想像で、何が切実で、何が現在なのか、
    手の先、思考、行動の先から加速的に広がっていく世界に私は時々置いて行かれそうになる。

    そして、私は明日の仕事のタスクを考えて、明日の予定を整理して、現在を呟く人々を眺めて、満足して眠りにつく。


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