朝ドラをもっと楽しもう!天才、古関裕而を探して。第一回【音学note】
皆さまこんにちは、ライターの青竹です。
今回から2回に渡って現在放送中の朝の連続テレビ小説「エール」で主人公のモデルとなっている天才作曲家、古関裕而(こせきゆうじ)を特集します。
(古関裕而。画像出典:Wikipedia)
ドラマの方では古山裕一としてちょっと情けない(?)、音楽への愛にあふれた男として描かれている裕而。日本人作曲家として初めて国際コンクールでの入賞を果たすなど、紛れもない天才だった彼の生涯はいったいどのようなものだったのでしょうか?
福島市大町での少年時代
1909年8月11日、古関裕而の生涯は福島県福島市大町の呉服店「喜多三」(ドラマ内だと「喜多一呉服店」、似てますね。)に長男として生まれた所から始まります。音楽好きの父親は当時珍しかった蓄音器を持っており、裕而は音楽に囲まれた幼少期を過ごしていました。
(喜多三呉服店。画像出典:古関裕而ゆかりの地 記念碑)
(当時の喜多三呉服店の跡地に建つ、古関裕而の記念碑。画像出典:古関裕而ゆかりの地MAP)
喜多三呉服店は呉服店として繁盛しており、古関家はかなり裕福な家庭だったようです。裕而も自伝でこう書いています。
番頭、小僧が十数人。明治末期に、東北には仙台に次いで二台目というナショナル金銭登録機(*レジスターのこと)をでんと店頭に備え付け、市内有数の老舗として繁盛していた。
(古関裕而自伝~鐘よ鳴り響け~より)
当時裕而がいた福島市大町には、5才歳上の鈴木喜八という少年も住んでいました。裕而と一緒に遊んだりする仲だった喜八ですが、後に野村俊夫と名乗る作詞家、詩人となり、裕而と共に多くの名曲を世に送り出す事になります。すごい運命ですね。
(野村俊夫。画像出典:Wikipedia)
1916年(大正5年)、7歳の時に福島県師範学校附属小学校に入学すると、裕而の音楽の才能は徐々に開花し始めます。ここで担任だった遠藤喜美治が音楽の指導に力を入れた、裕而にとって大変ありがた~い先生でした。音楽にどっぷりはまり、そのうち授業では物足りなくなった裕而は、市販の楽譜(セノオ楽譜)を買い求め、更には友人たちが持ってきた詩に曲をつけるようになりました。この時裕而は10歳くらい。なんという天才でしょう。
(妹尾幸次郎によって大正時代に出版された「セノオ楽譜」。竹久夢二が表紙を描いたこの楽譜は当時一世を風靡した。裕而も「カルメン」や「コルネヴィユの鐘」などの楽譜を購入していた。画像出典:山田書店https://www.yamada-shoten.com/blog/?p=10717)
銀行員?作曲家?川俣町で過ごした青年時代
(川俣銀行時代の古関裕而。画像出典:ふくしま地域ポータルサイト「ももりんく」)
その後裕而は1922年、旧制福島商業学校へ入学。このころからハーモニカに夢中になります。大正から昭和初期にかけて、学生のハーモニカバンドはとても盛んで裕而も常にハーモニカを携帯していたようです。またここで丹治嘉市という理解ある教師と出会い、山田耕筰(1886-1965)が書いた「作曲法」などの本を買い、作曲も熱心に勉強していました。校内弁論大会ではハーモニカで音楽をつけ初めて自分の作品が披露され、学校卒業のころにはハーモニカソサエティーにも入団し、作曲や指揮を担当します。この仲間たちとの交流で初めて近代フランスやロシアの音楽と出会った裕而は衝撃を受け、ストラヴィンスキー(1882-1971)やドビュッシー(1862-1918)といった近現代の作曲家に傾倒していきます。
しかしこの時期に実家の「喜多三呉服店」が倒産、古関家は金銭的な部分で苦しくなっていきます。裕而は伯父の勧めで、伯父が頭取を務める川俣銀行に就職。銀行員として働きますが音楽への情熱は捨てきれず、職務の傍ら作曲を続けます。当時川俣町の母方の生家に住んでいた裕而は、後に川俣町についてこんなことを記しています。
「目が覚めるとまず裏庭から鶏の声が聞こえ、向かいの鍛冶屋の槌の音が響いてくる。私にとって川俣の朝の音楽である。やがて町のあちこちから筬の音が響き出してくる。
(省略)
伯父の家の向かい側に舘の山という小高い山があって、よく登っては白秋の詩等を読んだり、作曲したりした。私のメロディーは福島と川俣の風光から生まれたのだ。私はこのような静かな町が大好きである。」
(古関裕而著「作曲を志す町」より)
(裕而が実際に使っていたオルガン。画像出典:福島民友新聞)
1928年、銀行勤めの傍ら作曲活動に勤しんでいた裕而は、この頃山田耕作の事務所へ何度か手紙を送り、やり取りをしています。またリムスキー=コルサコフ(1844-1908)というロシアの大作曲家の弟子で仙台に住んでいた金須嘉之進(かねすよしのしん)という人に作曲を師事します。彼から管弦楽法を学ぶこととなります。
ストラヴィンスキー、ラヴェル、シェーンベルク、そして古関裕而
1929年(昭和4年)、裕而はイギリス、ロンドン市のチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに応募し、二等入選となります。国際的作曲コンクールにおいて日本人が入賞するのは初めての事であり、1930年1月23日の『福島民友新聞』でも大々的に報じられました。
(裕而の受賞を伝える当時の新聞。左上に裕而の写真付きで報じています。福島民友新聞)
受賞した作品は舞踏組曲『竹取物語』を初めとした数曲。裕而もこの受賞についてかつての商業高校時代の恩師丹治嘉市にこんな手紙を書いています。
《 先生 本当に御無沙汰致しました。お謝し下さい。(中略)
先生も御承知の通り、私もいよいよ今度、本当に音楽家になる為、明年二月末渡英致します。
英、ロンドンの楽譜出版J.W.CHESTER.LTDで発行してる音楽雑誌CHESTERIANを、昨年一月より買って読んで居ましたが、本年三月号に全世界より、管絃楽作品の懸賞募集がありましたので私も、作品中より、五曲程で応募致しました。幸に、二等に五曲共入賞致し、その五曲は、右出版社よりMiniature Scoreとして出版さるる事となり、なお、同出版社の経営になるINTERNATIONAL MUSICAL COMPOSERS ASSOCIATIONの会員に入る事が出来ました。
作曲家協会の組織は、会員相互に教授し合う様になって居て、右協会のプレシデントは現代音楽の雄イゴール・ストラヴィンスキーです。会員には独乙のシュトラウス、オーストリヤのシェーンベルヒ、仏のラヴエル、オスガー、ミロー、英のグーセンス、バッタス等、現代音楽の一流の作曲家が入って居ます。日本では、山田耕筰だけです。これ等の名作曲家に教えを願う事が出来る私は非常な幸福です。
(中略)
なおうれしい事に、私の入選曲中、随一の舞踊音楽『竹取物語』が英国コロムビヤ・レコードに明年七月頃、グーセンス指揮で、ロンドン・フィル・ハルモニック・ソサィティが、入れてくれる契約になりました。十二吋両面四枚続き。
今、私は非常に多忙です。仏語と、露語を勉強してます。渡英する時は、シベリヤ経由で行きます。
今「第三ピアノ・コンッエルト」と音詩「仏」(ほとけ)を作曲中です。行く迄にはなお数曲作らねばなりません。
(中略)
ストラビンスキーから仏語で手紙が来てますが良くよめません。先生に翻訳をお願い致したいのですが?(タイプライターで打ってあります。)
多忙な中を書いたので、こんな乱雑になりました。おゆるし下さい。何卒、秘密をお守り下さる様。校長先生、坂内先生、諸先生によろしく。
ではまた、その中に。乱筆多謝
川俣町川俣銀行内 古関裕而より 》(http://www7.plala.or.jp/edih/kosekilife/take.htmlより引用)
手紙の中に出てくる名前がストラヴィンスキー、ラヴェル、シェーンベルク...、超大物ばかり!古関裕而も日本を代表する作曲家として、彼らの仲間入りを果たしたわけです。
さあ、残念ですが第一回はここまで!
いよいよ古関裕而の作曲家人生が動き出しました。次回は彼の華々しい活躍や名曲たち、そして最愛の妻であり彼のミューズであった女性との出会いを書いていきます。お楽しみに!
文:青竹(コロンスタジオライター Twitter:BWV_1080)
参考文献
古関裕而:Wikipedia
ふくしま地域ポータルサイト「ももりんく」
福島民友新聞「みんゆうNet」
川俣町HPより「川俣町と古関裕而」
ハーモニカの歴史/鈴木楽器製作所HP
山田書店
古関裕而ゆかりの地MAP
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