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あの選択をしたから

それは、焼き鳥好きのイギリス人だった。

「アンドリューがね、ディナーはヤキトリを食べたいらしいの。でも私は用事があるし、かといって英語ができないと彼のお相手が務まらないし。だから、お願いしていいかしら」

イギリス人の上司は、お願いとは思えない口調で、そういった。

アンドリューとは、イギリスの本社から数日だけ東京オフィスに来ているシニアバイスプレジデント、要はお偉いさんだった。

日本で使っている業務管理システムが、あまりにヨーロッパの仕様そのまますぎて、日本の現状に全く沿わない。
それどころか、そもそもの勘定コードが抜けていたりして、使用に耐えられないということを、イギリス人の同僚と半年ほど本社に訴え続けていた。

最初は日本のチームがきちんとシステムを使おうとせず感情的に反発しているからと決めつけていた本社も、私たちが地道にシステムバグや業務プロセスのギャップなどをリストアップし論理的に説明したおかげで、ようやく聞く耳を持ち始めてくれたところだった。

そんな中でのアンドリューの来日。ようやく日本のシステム改良に投資してくれるのかも、という期待は、冒頭でこっぱみじんに粉砕された。

「投資家への対応もあり、ヨーロッパのシステムの入れ替えを優先すると取締役会で決定されたので、日本は後回しになる。おそらく数年」

さんざん惨状を訴えた後だっただけに、本社もさすがに申し訳ないと思ったのか。
だから、お偉いさんがわざわざ日本に足を運び、直接顔を見てその決定を伝えることにしたんだろう。

脱力だった。
その数年を待てる気はしなかった。
少なくとも日本より業務がまわっているだろうヨーロッパを優先するなんて、差別じゃないのと思うと、だんだん失意は怒りに変わっていった。

だから、ついそんな選択をしたんだと思う。

「どう考えてもおかしい。日本は現在売り上げ世界二位のマーケットなのに、システムがまともに動かないためにものすごいたくさんのマニュアル作業を強いられていて、そこら中エクセルでカバーしている。なのに、ヨーロッパからシステムを入れ替えるなんて、どう考えたっておかしい」

焼き鳥を上手に串から外す方法を教え、日本酒をこぼさずお銚子からお猪口に注ぐ方法を教えているうちに、目の前にいる年齢のそんなに変わらない大柄のイギリス人が、お偉いさんだということをうっかり忘れたのかもしれない。

いや、やっぱり、ずっとくすぶっていた怒りがあったんだろう。

ストレートに不満を訴えていた。

「だったら。
不満をこぼす側にいるんじゃなく、解決側のチームに入るのはどうかな」

眼鏡の奥からしっかりと目をみすえて、アンドリューがそういった。

「イギリスの本社に来て、まずはヨーロッパから、そのあと世界展開していくシステムの入れ替えプロジェクトにメンバーとして参加しないか」

2009年。
新宿の焼き鳥屋。

外資の東京オフィスで日本のビジネスのために働く、という生活が、本社から世界中のビジネスの仕組みを再編するために働く、という生活に大きく可能性を広げた瞬間だった。

「いきます」

即答だった。
即答すぎて、アンドリューが「家族やほかの誰かに相談しなくていいのかい」と心配するほどだった。

あの選択をしたから。
ビジネスの全体最適のために何ができるかを熱意をもって討論できる、素晴らしいチームと出会うことができた。

あの選択をしたから。
論理的に、言語の壁を越えて、相手に理解してもらうためにはどうしたらよいかを考えられるようになった。

あの選択をしたから。
自分のちからで永住権を得て、海外でひとりで食っていける生活の基盤を築くことができた。

あの日、お偉いさんのヤキトリディナーにおつきあいすることにしたから。
そして、正直に怒りをぶつけることにしたから。
だから、イギリスへの転勤の話が舞い込んだ。

そして、あの時した決断を、よい決断だったと思えるように、つらい時も簡単にあきらめないよう心掛けたから。
あきらめない仲間が作れたから。

だから、今日も私はロンドンの秋空の下、自転車で職場へ向かう。

会社は変わり、チームも変わり、立場も変わったけれど。
でも、あの選択をしたおかげである今日を、
私はよかったと心から思えている。

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