ロンドンくるま右往左往
2019年4月8日のこと。
大気汚染対策として「超低排出規制ゾーン(Ultra Low Emission Zone,略称ULEZ、ウレズと発音する)」がロンドンでスタートした。
これは一定の排ガス基準を充たさない車やバイクがロンドンの市街地を走る場合お金がかかるという仕組みだ。
すでにこの規制が始まる段階で、ロンドンの中心部分に乗り入れる場合は混雑回避税(Congestion Charge)が掛けられていた。
ULEZは、そこに追加してさらに1日あたり乗用車なら12.5ポンド,トラックやバスなどの大型車は100ポンド必要になるというもの。
該当エリアとの境界線に設置された監視カメラが自動的にナンバーを読み取り、そこから車体情報を検索。排ガス基準を満たしているかを確認し、満たしていない車の所有者あてに請求書が送られてくる。
違反切符を無視しようものなら、1日あたり160ポンドがペナルティとしてどんどん追加されていく。
とはいえ、該当するロンドン中心部というのは、たとえばビッグベンのあるウエストミンスターやホームズで有名なベーカーストリートなど、かなり狭い範囲だったし、そんなエリアでは駐車代も高いので、わざわざ車を出そうという気にもならなかった。
郊外に行く時には、中心部をさけ環状線を回れば、まあそこまで暮らしに困ることはなかった。
そう。2021年の10月がくるまでは。
♢
コロナの対策などで名前をしられるようになったボリス・ジョンソン。
彼はイギリスの首相になる前、大ロンドン市の市長を務めていた。
ボリスは企業や資本家におもねった保守党の政治家。
なので、彼の市長時代、このULEZの開始時期は2020年に設定されていた。
ボリスのあと市長の職を引き継いだのは、労働党出身のサディク・カーン。
当時、EU加盟国の首都の市長としてイスラム教徒が当選したのは初めてで、人種や宗教の壁を乗り越え、新しい時代がやってきたといわれた。
このカーン市長。
まず、2020年に設定されていたULEZの施行タイミングを2019年4月に前倒し。
さらにそれまでせいぜい東京でいう外堀通りが作る円くらいの範囲だった規制対象を、2021年の10月から規制範囲を南北環状線(東京の環状八号線にあたるようなもの)まで拡大した。
そして今年の8月からは、大ロンドン市すべて。ほぼ高速環状25号線(M25)の内側すべて(東京でいえば外環自動車道の中のような感じだろうか)を対象範囲にするという。
地図をみると、当初2019年の対象だったロンドンの中心地から、住宅地がメインとなるエリアへと拡大していく様子がよくわかる。
当然影響を受ける人々の数も格段に増える。
第一歩の拡大である2021年は、しかもコロナやブレクジットによる不景気のど真ん中だった。
コロナへの懸念から公共交通機関を使えない、使いたくないひとたちもたくさんいたし、不景気の中また車でしか移動できない高齢者や障害者への経済的インパクトもあった。
なので、規制強化の適用を遅らせるのではないかという噂もでた。
が。
この拡大策は予定通り実行された。
その結果、
バイクの場合、排ガス規制「Euro 3」を充たすこと
2005年以降新車登録の車両、2006年以降新車登録のバンについては排ガス規制「Euro 4」を充たすこと
2015年以降新車登録の車や軽バンについては排ガス規制「Euro6」を充たすこと
この条件に合致しない車は動かすたびにお金がかかることになった。
そして。
その対象にまんまとうちはひっかかった。
♢
さかのぼること、2014年。
車を買い替える際、ガソリン車にしようかディーゼル車にしようか悩んだ末、当時さんざん言われていた「クリーンディーゼル」の文言を信じ、私たちはディーゼル車を買っていた。
その後、フォルクスワーゲン社の排出ガス規制不正問題のニュースが降ってきた。
その時は、リコールも賠償金もないというメーカーからの手紙に、騙されたのにそのままかと不快になった。
とは言え、実質的な損失はなかったから、溜飲を下げそのまま受けとめることにした。
が、今度は別だ。
あの時ガソリン車を選んでいたら、と思うとつい拳に力が入る。
くうううう。
あの時の自分め!
私たちだけでなく、これはロンドンで南北環状線の内側に住むものにとって、ものすごいインパクトだった。
トレーシーは、ガソリン車ではあったものの、たった1か月の新車登録タイミングの差で、ずっと乗っていたランドローバーがこの規制の対象に該当してしまった。
もちろん、喘息もちでデリー出張や上海出張で死ぬほど苦しい目にあった私は、大気汚染の改善が大事なことはよくわかっている。
でも、不正について、将来のULEZ拡大プランについて、あの時知っていたら。
きっと違う車を選んだのに…という気持ちが拭えない。
だから、どうしてもこのエリア拡大には感情的になってしまった。
そして。
私たちは車を売った。
トレーシーも車を売った。
ロンドンの外に住む人たちには、まだまだ乗り続けてもらえる車たちなのだから。
♢
「で、お父さんがウェールズで乗っていた車をこっちに置いておくことにしたの」
トレーシーが言った。
登録が数ヶ月早かったために同じくらい古い車だけれどお父さんの車は規制対象外なのだという。
「仕事で郊外に行く時とか、やっぱり車のほうが早くて安い時もあるし、車があった方がいいかなと思って」
そして、車の保険を折半し、私を運転者に加え、何かあったら使えるようにしようかと提案をしてくれた。
♢
ぷすん、とすら、いわなかった。
トレーシーの車を使えるようにしてから2年弱。
一度も使うことはなかった。
保険で登録され、合鍵も作ってあったもの、私はコロナですっかり家ごもりに慣れてしまったのだ。
それまで郊外の韓国スーパーや中華スーパーにいって買っていたごま油やブルドッグソースが、少し高いけれど、近所に新しくできたタイスーパーで買えるようになったこともあった。
誰かの車だと思うと、これまでのように、ただドライブに行こうという気にもならなかったし、チューブや電車、バスに乗って遠出するのも悪くなかった。
結局、ぜんぜんトレーシーの車を運転しないまま時間が過ぎていた。
使わなかったとはいっても、冬の間寒い朝が続くと、私はバッテリーを心配して、自転車で彼女の家まで行き、スタートだけさせたりしていたのだ。
だのに。
いざ、車じゃないとという場所に行こうとしたら、
完全にバッテリーがあがっていた。
「えー!そうなの?ほんっと申し訳ないわ。最近はロンドンに行ってもエンジンをちょっとかけてたけど運転はしてなかったから」
ウェールズにいるトレーシーに電話すると、彼女はそう言って今からロードサービスを頼むという。
「あと40分で来るらしいけど、そこにいてもらっていいかしら」
♢
「よし、これでオッケー」
モロッコ人だという人なつこいロードサービスのおじさんは、ジャンプスタートし、ニッコリ笑った。
「この後、だいたい15000回転を維持するようにして、45分は最低アクセルを踏み続けていてね」
えっ。
ご近所の人が「あら、なんで知らない人がトレーシーの車をふかし続けてるのかしら」という顔で表に出てきてしまうなか、私は渋々ポッドキャストを聴きながら、ひたすらつま先を調整しエンジンをふかし続けた。
よし、45分たった。
これで車を動かせる。
えっと、そもそもどうして今日は車が必要なんだったっけ。
待ち時間にふかし時間。
気づいたら数時間がぶっ飛んでいたから、危うくそもそもの目的を忘れるところだった。
♢
「で、やっぱりバッテリーのためには高速とかをある程度長い時間走ったほうがいいと思ってさ」
翌日、私は、高速4号線を西に走っていた。
バッテリーをしっかり貯めるにはそれがいいと思ったし、それを言い訳に、ずいぶん前にいっておいしかったウインザーの先にあるパブへサンデーローストを食べに行くことにしたのだ。
「返す前に、ちゃんとガソリン入れておかないとね」
と、帰り道。
高速に乗る前にガソリンスタンドに立ち寄った。
給油し、さあ出発しようと車をだした途端、地面からガラガラガラガラとすごい音がした。
「パンクだ」
助手席でヴィンセントがいった。
えっ。まさか。
昨日の今日で?
しかし、そのまさかだった。
コロナの間もそのあとも、あまりに長い間運転していなかったから、きっと空気圧が低くなっていたのだろう。
そこに高速で1時間以上負荷がかかったからか。
がーん。
おろおろとするヴィンセントを横に、トランクを開けて、スペアタイヤとジャッキを出す私。
タイヤ交換する羽目になるのは、ミネソタで暮らしていた時とこれで2回目。
あの時は、さび付いたホイルキャップがなかなか取れなくて、そしてさらにその中のナットがさらにさび付いていて、動かなかったんだよなあ。
引っ越した直後で頼る人が誰も近所におらず、半泣きしながら道を歩いていた黒人のお兄さんに必死で声をかけて、助けてもらったんだった。
でも今回はオトコ手がある、そんなことを考えながら、みると、ヴィンセントはしゃがんだまま茫然とタイヤの前。
ホイルキャップすら外せていない。
えっ。私がやるんですか。
と、そのとき。ガソリンスタンドのあるスーパーの駐車場の先に、黄色に黒字でAAと書かれたバンが停まっているのが目に入った。
AAは日本でいうJAF。そう、ロードサービス会社の車だ。
きゃーっ。
気がついたら走り出していた。
「あのっ。パンクしちゃって。もちろん、お仕事中だと思うのでサービスをとは申しません。でも、ホイルキャップが外せないのです」
と、駆け寄ると、運転席には、前日バッテリーの時のにこやかなおじさんとは対照的な、コワモテ風のおにいさん。
「ん?あそこか。しかたないな」
しかし、外見とは裏腹に、とても親切だったおにいさんはささっとバンを動かしてくれた。
車の真後ろに停め。
さささとホイルキャップを外し。
ナットをすこし触って、すたすたとバンに戻ってしまった。
ああ、やはりヘルプはここまでか、と思った瞬間。
まるで機関銃のように、電動式ナットドライバーを抱えて戻ってくると。
トルゥルゥルゥルゥルゥ。
すべてを緩めて。
そしてジャッキをくるくるくるとジャッキポイントにあてると、車体に触るくらいまで上げ。
「ここからは、大丈夫だろ。なっ」
と、最後のなっの部分でまだしゃがんだまま感心しきっていたヴィンセントを見下ろし。
バンのところへと颯爽と戻っていった。
電動ナットドライバーを片手に下げたその姿は、まるで荒野のガンマン。
慌てて駆け寄って、財布に折りよく入っていた10ポンド札を手渡し
「ありがとうございました。仕事の後の一杯を、どうぞこれで」
とお礼した。
「おう、あんがとな、ラブ。気をつけて帰んなよ」
おにいさんは、クールな表情のまま、かっこよく去っていった。
さあ、あとはジャッキアップを終わらせ、タイヤをいれかえれば大丈夫。
と、そこに、携帯でメッセージをいれていたトレーシーから電話がかかってきた。
「えええ!いくら何でも連続すぎない?大丈夫?ロードサービスをまた手配…」
といいかけたのを、さえぎって。
「大丈夫。もうね、タイヤ着けるだけだから」
AAのバンがそこにいたという強運に感心しきりのトレーシーを安心させ、ガソリンスタンドで空気圧を足し、帰路についた。
考えてみたら、もしも高速道路でパンクしていたら、大変なことになっていたはずだ。
AAのバンに出くわすこともなかっただろう。
二日連続のトラブルではあったけど、どう考えても運がよかった。
「まったくさ。それもこれも、結局のところ突き詰めたら、カーン市長のせいだと思わない?」
スペアタイヤなのでスピードを抑えめに走行車線を走りながら、そういうと、ヴィンセントがいった。
「いや、それはさすがに恨みがましすぎるんじゃないの」
そうかなあ。
この右往左往ぶりは、突き詰めたらULEZのせいにやっぱり思えてならないのだけれど。
いただいたサポートは、ロンドンの保護猫活動に寄付させていただきます。 ときどき我が家の猫にマグロを食べさせます。