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清潔のルール

「あ、しってる。それデニス・ザ・メナースでしょ」

私はハトが豆鉄砲を喰らったような顔をした。
なんじゃそれ?

どうやらケヴィンの目には、私が着ていた赤と黒の縞模様のセーターが自分が親しんでいたマンガのキャラクターと似ていたらしい。
それ以来、そのセーターを着ているとかならずデニスといわれる。
まるで洋服のローテーションを追いかけられているような気がして、着づらくなって、やがてそのセーターはチャリティショップに寄付してしまった。

確かに、キャラクターってたいていいつも同じ服を着ている。
のび太くんの黄色シャツ。
ジャイアンのジグザグ入りオレンジシャツ。

「ま、マンガのキャラクターみたいなものだからね」

私の周りのヨーロッパ人は、特に寒くなってくると、同じ格好をしていることが多い。
臭くないのかとか周囲からのイメージは気にならないのかと思ったけれど、みんなマンガのキャラクターのように堂々と同じ服。
あまり気にするポイントではないらしい。

そう思うと、国や文化によって「清潔」の概念はずいぶん違うものみたいだ。

香水が発明されたのは、体臭をカバーするためだともいうし、日本と違って水が貴重なヨーロッパでは、私たちほど入浴の習慣はなかったろう。

コロナ以前。
私は冬場になって喉が痛くなってくると、ロンドンのオフィスでもマスクをつけていた。

自分の喉を守るため。
そして、他の人に風邪をうつさないため。

いくらそう説明しても、周囲のスコットランド人やカナダ人、ドイツ人たちは「なんかさー。顔の半分が隠れているって、感情が伝わってこなくって、ざわざわするんだよねー。せめてマスクにニッコリした口元でも描いたら?」などと揶揄してきたものだ。

そんなヨーロッパ人もマスクというものに否が応でも馴染まなくてはならない日々がやってくるとは思いもしなかった、あの頃。

でも、やっぱり長年の習慣や価値観というのは強いもので、強制されていた期間であってもつけないひとはいたし、強制が外れた今では、もはやマスクをつけている人は少数派。
ただ、逆にいえば、マスクをつけていたとしても、昔のように奇異の目でみられることはなくなったことが、変化かもしれない。

マスク着用が任意に変わり、戦争が起こり、物価高がひどくなり、印象としてコロナがほとんど語られなくなっていった2022年のヨーロッパ。
そこから、コロナ規制真っ只中の日本へ出張と帰省で2回行った。
すでにマスクをしまいこんだイギリスから、屋外でも屋内でもマスクの日本の生活に切り替える。

それは、外国にいったとき、車の走る側が反対側になるのと似ていた。「あ、いけない」と最初のうちは思っていて、だんだん慣れてきて、そして今度は帰国した時にも気持ちのどこかに残像が残っている。

「清潔」とか「衛生」というものの価値観が、世界中で大きくひっくり返る経験をし、しかも、それがいかに個々で、文化背景で、場所で、時代背景で、異なるものなのかを痛感した。

そんな中で、文化や場所や時代を越えて思い至ったわたしの「清潔のルール」。

それは、まず、まわりのだれかの健康をおびやかさないことだった。

ロックダウンのさなか、一人暮らしの家で、誰とも会わずに生活し、一日一回の運動以外スーパーに行くのもできるだけ控えていたころ。
私が、マスクをし、手洗いをし、ひたすら家に閉じこもっていたのは、自分が気づかぬうちに感染し誰かに移してしまうことで相手の健康を脅かしたくなかったからだ。
トレーシーが、闘病中だったおかあさんのために努力していたから、自分もそうすべきだと思ったから。

そして、まわりのだれかのことを不安にさせないこと。
科学的に考えれば、エアゾール感染を勘案しても、屋外で距離をあけてしゃべらないのであれば、リスクはとても低い。
とはいえ、もし道で反対側から歩いてくるひとが、マスクをしているのであれば、マスクをつけたり距離を置いたり、相手の不安が最低限ですむようにと思う。

そうそれは。
赤ちゃんが生まれたばかりのお友達の家に遊びに行ったときと同じ気持ちだ。
おかあさんになりたての友達をどきどきさせないために。
赤ちゃんがばい菌にさらされないように。
まずは手を洗って衣服の埃を払ってから、抱っこさせてもらう、あの時のルールと一緒。

大切な誰かのために。


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