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特急列車をおいかけろ(その2)

前話からつづく。

サンセバスチャンについたあと、私たちは大慌てで宿へと向かった。

しかし、その気持ちを逆なでするように、旧市街はものすごい人出でごったがえし、しかもその人波は私たちが進みたい方向とは逆にながれているようだった。
そうだ、この日は海の神様のお祭りがあるので、到着するころには人出がすごいよとホテルの人がいっていたっけ。

かきわけ、かきわけ、なんとか宿につき、着替え、そして大慌てでレストランに向かった。

公団住宅の立ち並ぶ道をタクシーがずんずん進み、そして突然ひらけたところに建っていたのは、そう、その目的の場所、マルティン・ベラサテギ。

入っていった瞬間、たっぷりと余裕をおいて設置されたテーブルにポツンと日本人男性が一人で食事しているのが目に入った。

私たちは、テラスで食べることにした。
がらんとしていた室内とは対照的にテラス席にはいくつものグループ客がいた。

どういったワインが好きかと訊ねてきたソムリエに、たまえちゃん(仮名)が「私はスペインワインは詳しくないので、フレンチワインで好きなものになってしまうけれど」といいながら、好みを伝えた。
リラックスした感じでのんびりとした印象のソムリエが勧めてきたのは、一本80-100ユーロあたりのスペインワインだった。
その勧めに従い白ワインをオーダー。さくさくっと空けたあと、たまえちゃんが感想と共にワイン談義をひとしきりすると、彼の目がすこし茶目っ気を含んで光った。

「実は、まったく無名のスペインの作り手のワインなのですが、私はぜったいにおいしいと確信しているボトルがあります。作り始めてすぐのボトルで今が飲み時だと思うのですが、シャトー名で決まった有名ワインを求めてらっしゃるようなお客様にはお薦めできないのです。ご存じなのはフランスのワインなのはわかっているのですが、もしもワインを冒険することがお好きなら、僕を信じて、オーダーしてみませんか」

正直私は、タクシー代500ユーロのことも頭にあったし、さらに250ユーロも、と思わなくはなかった。
でも、二人は、そりゃ頼むでしょという顔をしていた。
粋人である。

そうまでいわれて、反対できるわけがない。

私たちはその250ユーロの赤ワインをオーダーすることにした。

ラベルをみせて確認したあと、ソムリエさんは、たまえちゃんたちのすぐ背中に置かれた小さなテーブルで抜栓した。私だけが観察していた彼の様子。ソムリエグラスで味をみたその彼の表情がパッと輝いたのが、私にはよく見えた。

おっ。

そして、彼がささっと味見した後のソムリエグラスに、追加でワインを注ぎ足したところも。ぷぷぷ。

「おめでとうございます、マダム」

そして、彼は胸を張って私たちのグラスにその赤ワインを注いだ。

それは、その後のいろいろなレストランやワインテイスティングの経験をいま思い起こしてもなお、
圧倒的に、
記憶に残る一本、だった。

そして、ソムリエさんは、次々にテーブルを担当していた若いウェイターたちを小机に呼んだ。
注ぎ足したソムリエグラスだけでなく、もう一個。
結局、味をみたウェイターは4-5人いただろうか。

たまえちゃんが背中をむけているからいいと思ってるのかしら、などと邪推を始めたとき。

「おめでとうございます、マダム」
「ありがとうございます、マダム」

味わったウェイターたちは、そして、次々にお礼をいいにやってきた。

きっとそれは、たまえちゃんの粋人ぶりをわかっているソムリエが、それを許すだろうと知ってのことなのだ、と私は気づいた。

ランチを担当するむしろまだ若いウェイターたちに、まだ名の知られていないしかし素晴らしいスペインワインを経験させる。
冒険、といわれたそのボトルを勧めてくれたことも、そして、それをちゃんと若いウェイターたちに経験させたことも、そしてしっかり彼らにお礼を云わせたことも、なんていけてるソムリエさんだろう。

あたまのなかで、私は、村上春樹の「スプートニクの恋人」を思い出していた。
よいワインを頼んだときこそ、お店の人が体験できるように残すものだとミュウが告げるあのシーン。
あれって、こういうことをいってるんだなあ。

すがすがしい景色と、心地よいテラス。
素敵なランチタイムで、初めての三ツ星レストランのよい思い出になった。

結局。
タクシー代は3人で割った。

あの時はこんなに大騒ぎしてまで行くものなの?と思ったけれど、今となっては、特急電車をおいかけてまで食べたランチ、記憶に残るあのワイン、なによりもいまだにダックスの名前を出すだけでゲラゲラ大笑いできる思い出を得ることができ、よかったのかもしれない。

そこから何年もあと。
コロナが世界を凍らせる前。
東京からパリにやって来たたまえちゃんと落ち合って、ギー・サヴォワに食事に行った。
サービスのおじさんと冗談をいいながら楽しい時間を過ごし、メインのジビエのパイが本当においしくてもっと食べたいくらいだわと云った私。
すると、それは嬉しいですね。じゃあもう一切れどうぞ、とおかわりを持ってきてくれた。

「私はダックスまでタクシーって永遠にいわれるけど、代わりに、今度からは三ツ星でおかわりした女って言い返すことにするわ」

たまえちゃんがケラケラわらった。

これからも、おいしく楽しい笑い話をもっともっといっぱい積み重ねていけるといいな。

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