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特急列車をおいかけろ(その1)

日本にいる間、週末に東京にいたのは一回だけだった。
そこで遊びに行ったのが、たまえちゃん(仮名)の働くワイン屋さん。

たまえちゃんは、私が東京で働いていたオフィスビルの最上階にあるレストランで店長をしていた。もう今から15年ほど前のことだ。
カップルがプロポーズしたり、接待ディナーが行われている、そんなおしゃれレストランのエントランスバーで、私はよく閉店間際に、こそこそと夜食を食べさせてもらっていた。

彼女は、今は南仏に住む私の中学からの同級生が、フランスの料理学校に居たころ一緒に寮生活を過ごした仲間でもある。
というより、そもそも東京時代に夜食に立ち寄りはじめたのも、その友達がたまえ店長に頼まれてサービスの仕事をしていたからだった。

10年ほど前。
まだその友達がパリにいたころ。
当時からフランス好きでワイン通のたまえちゃんがメドックマラソンを走るためにボルドーに来るので、集まらないかという話になった。
メドックマラソンとは、ワインで有名なボルドーの近郊メドックで開催されるマラソンだ。有名なシャトーやぶどう畑をめぐりつつコースが組まれ、給水ポイントではワインも振舞われる。

「で、さ。ゴール地点で私たちはのんびり飲んで待ってようよ」

こうしてパリとロンドンから集合した私たち。
二人でゴール脇の芝生に寝転んで、数々の屋台から買ってきたワインや生牡蠣、パテなんかをつまみに、飲みマラソンを始めた。
タイムは6時間ほど。たまえちゃんは笑顔でゴールした。

「これじゃ、乗り遅れちゃう」

翌朝、私たちはホテルの前のトラム駅で愕然としていた。
朝いちばんの電車で国境を越え、スペイン側にあるサン・セバスチャンに行く予定だった。
トラムですぐだったからとたまえちゃんは前夜云っていたけれど、それは平日の日中のこと。日曜の早朝にはトラムはほとんどなく、タクシーの姿もなかった。

歩いて30分弱の距離を、ボルドー駅までしかたなく私たちは小走りに移動しはじめた。
途中、小さな銀色のプジョーがやってきた。
おおおおおーい。友達がフランス語を叫びながら手を振って、運転手の気を引く。駅まで乗せてくれることになって、思いがけないヒッチハイク成功。

が、しかし。ヒッチハイクの努力もむなしく、プラットホームに走りこんだ私たちの目に飛び込んできたのは、反対側のホームからゆっくりと走り出す、目的の電車のテールライトだった。

がーん。

しばし脱力する私たち三人。

そこでいちばん最初に立ち上がったのは、たまえちゃんだった。

「切符売り場にいってくる!」

フランス語ができる二人が切符売り場で、代わりの電車を検討する間、私はただぼーっとプラットホームのベンチに佇んでいた。
こんなとき、英語しかできない役立たずにできることは、あまりない。

時刻表を手にして戻って来た二人が言うには、次に同じルートをいく電車は3時間後。

「それだと、せっかくがんばって取ったマルティン・ベラサテギの予約に間に合わない」

たまえちゃんがキリリと時刻表を握り締める。
そう、私たちがサンセバスチャンに移動する一番の理由は、そこにある三ツ星レストランに行くことだった。

ワインの知識に詳しく、フランス語も話す二人と違い、私は三ツ星レストランなどというものに行ったことはなかった。
それに、正直言えば、思い入れもあまりなかった。

だから、次の電車だとサンセバスチャンに着くのは夕方になると聞き、当然その三つ星でのランチの予約はキャンセルするのだろう、と思っていた。

「でね。もうタクシーでダックスっていう町までいって、今逃した特急をを捕まえるしかないんだって。そうすれば、そこからは予定通り国境のエンダイユに出て、スペイン側の路線に乗り換えてランチまでに着けるから」

えっ。
めざすの?
ランチ。

こうして、たまえちゃんのパッションにひっぱられる形で、私たちは表のタクシー乗り場に出た。

「え?どこだって?ダックス?そんな遠くにゃいかないよ」

高齢のタクシー運転手がみな誰もばっさり断る中、中東系の若い運転手がひとりだけ話をきいてくれた。

「日曜だし、長距離だから、メーターじゃなく500ユーロ。それなら行ってもいい」

明らかに観光客な私たちの顔をみて、たまえちゃんも友達もフランス語で話しかけていたにもかかわらず、彼はそう英語でこたえた。

「せっかく予約が取れて、日本から来てるんだもの。いくわよ。いくよね?」

私が彼の返事を日本語に訳すと、すぐにたまえちゃんが言った。

日本から来ているということばの迫力と、でもひとり140ユーロずつかという数字が頭をよぎる。
っていうか、そもそも、そんなにまでして行くものなのか?三ツ星レストランって。

「ああ、もう。こうしてる間にも乗り継げなくなるかもしれないのよ!私が全額だすから、みんな乗って!」

たまえちゃんが叫び、私たちは、メルセデスの後部座席に乗り込んだ。

ほとんどの道中を高速の追い越し車線でガンガンに飛ばしながら、その20代後半に見える青年はずっと英語で話しつづけていた。
フランスでは、外見がアジア人だと、たいてい英語に切り替えて話しかけられる。
今回も例にもれずということなのだろう。
しかも、アジア人の常で、おそらく彼の目には年齢よりも相当幼くみえただろう私たち。
それが、三ツ星レストランにいくためにタクシーに500ユーロも払って電車を追いかけるというのが面白くってしかたなかったようだ。

「まかせとけ。ムダ金にはさせないぜ」

約束は守られた。
ダックスの駅に着いたとき、電車の到着まで余裕たっぷりだった。

「メルシーボークー、トランクを開けてください」
友達がフランス語でいうと、運ちゃんは目を見開いた。

「え?フランス語できるのかい?てっきり英語だけだと思ってずっとこっちの子に話してたけど…」

そうフランス語で返したので、

「そうそう、こっち二人は日本語とフランス語、私は日本語と英語しかできないのよ」

と私が説明した。
最初にダックスまで行けますかっていう質問は、フランス語で訊いたはずだけどなあと思いつつ。

「そうだったのかー。気づかなかったよ。ともかく、無事間に合わせることができてよかったよ。じゃ、ランチ楽しんで。ボナペティート!」

こうして、私たちは、500ユーロとひきかえに、一度は乗り逃がした特急列車に乗り込んだ。

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