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便乗してラグビーを語ろう

ラグビーW杯、まっさかり。

昨日はサモア戦だった。
フィンランド人の友達アナが泊まりくる日と重なったので、家で待っていなくてはならない。パブに行かず、家でネコと一緒にテレビ観戦することにした。

中学生の時、ドラマ「スクール☆ウォーズ」やユーミンの「ノーサイド」が流行っていた。今思えばラグビーブームのはしりだったんだろう。
でも、私はそこまで入り込むことはなかった。

そんな私を高校時代にラグビーの道に引きずり込んだのは、同級生たちだった。
同級生の仲良しグループには、パパがニュースキャスター(田村正和のドラマではなく)という子が2人いた。
アナウンサーというのは、スポーツ中継するために種々様々なスポーツのルールを勉強するんだそうだ。
そんなお父さんたちがしっかり説明してくれたから、と、当時どちらかといえばマイナースポーツだったラグビーのルールに、彼女たちは精通していた。
「おもしろいしカッコいいんだよ」そういって女子高生ながら早稲田・明治の大学チームを追いかけていた。

友達の情熱につきあう形で、八幡山グラウンドへ練習を観に行ったり、早明戦を観に行ったり。

まあオフサイドとフォワードパスとノックオンくらいわかってれば歓声をあげられる。
そんな感じだった。

当時、日本選手権は社会人日本一と大学日本一との決戦の日。
神戸製鋼が連勝を続け、そこに早稲田や明治や法政が切り込んでいく、そんな時代だった。

毎年1月15日の開催なので、中継では晴れ着を着た新成人の女性が絶対にテレビ画面に映る。

「私たちもさ、成人式の日はぜったいに振袖着て日本選手権に行こうね」

そうずっと決めていた。

が、私たちの成人式は、ざあざあの雨。
泣く泣くジーンズと雨合羽に着替えて観に行くことになった。
ああ残念無念。

「悔しいからさ。来年も振り袖着て、行っちゃおう」

翌年。
私たちは女子8人で振り袖を着てリベンジをした。

周囲のおじさまたちは、一升瓶に茶碗で日本酒を飲んでいる。

「おお、新成人だな!まあ呑め、呑め!」

ホントは違うけど〜、と心のなかで思いつつ、にっこり笑って茶碗を受け、美味しくグビグビいただいたものだった。

時間は過ぎて。
アメリカから帰国し、東京で働いていた頃。
当時付き合っていたのはイギリス人だったから、行くのはもっぱら六本木や赤坂のイングリッシュ、アイリッシュパブだった。

その頃、華やかだったのはイングランドのキッカー、ジョニー・ウィルキンソン。
甘いマスクに正確なキック。
若く溌剌なスター選手はイングランドラグビーの黄金時代の象徴だ。

オーストラリアでのW杯。
決勝にイングランドが進むことが決まると、普段はチェルシーの勝敗しか関心ないはずのボーイフレンドは、「こんなことは二度とないから」と、ものすごい大金を払ってチケットを手に入れ、自分だけ男友達と観戦に飛んで行った。

私は寂しく六本木のパブ。
ラグビーに関心のないアメリカ人と韓国人の友達カップルに渋々つきあってもらい、テレビ観戦で優勝を見守ることになった。

いまだにテレビでイギリスW杯優勝の栄光の話や、試合の解説をするジョニー・ウィルキンソンの顔をみると、あの時置いていかれテレビ観戦した悔しさの方を思い出してしまう。

そのせいか。
あるいは、今はウェールズ人やアイルランド人の方が仲良しが多いからか。
今ではむしろ、アンチイングランドでラグビーを観てしまう。

「シックス・ネイションズ、優勝おめでとう」

その後、イギリスの会社に転職し、アイルランドとやり取りする機会が増えた。
そして、電話の向こうの人たちに、シックス・ネイションズなどラグビーの話題を出すと、とても空気が緩むことに気がついた。

まだ電話会議はシスコの回線にパスワードを入れて雑音が入りながら音声だけやり取りするような時代。

共通の話題をきっかけに、仕事の話だけでなく「ギネスは日本だと1200円くらいするんだよ」など、雑談もふくらんだ。

「もう日本は夜の8時だろ。あとは俺たちに任せて、パブにいけ。明日お前が出社したときには、この問題はみんな片づけといてやるからさ」

なんていってくれるほど親しい関係になれたのも、ラグビーとギネスのおかげかもしれない。

イギリスに転勤して、ラグビーというスポーツについて、さらにたくさん学ぶようになった。
と言ってもルールじゃなくて文化的な位置づけのようなものを。

たとえば。

サッカーは労働者階級の観るスポーツだけれど、ラグビーはもう少し上流と思われていること。

サッカーではアルコールをスタジアムの観客席に持ち込めないが、ラグビーは「紳士のスポーツだから」アルコールを持ち込めること(と、元ラガーマンのブルースは胸を張っていた)。

オリンピックには「グレートブリテン」として参加する「イギリス」は、W杯にはそれぞれの国(イングランド、ウェールズ、スコットランドなど)のチームを送り出している。
アイルランドのラグビーユニオンは、イギリスの侵略によってアイルランド共和国と、イギリスの一部である北アイルランドに分断される前に設立されたため、統一されたチームを送り出していること。

ウェールズではラグビーが「国技」なこと(なのに最近はあんまり強くないのよねとトレーシーはこぼすが)。

そして、「ラグビー、観るよ」をきっかけに、イギリス人たちだけでなく、オーストラリアやニュージランド、南アフリカ人の同僚とも急にぐっと距離が縮められた。

まあたいていはW杯最大得点差、128点差でオールブラックスに負けた日本の黒歴史を揶揄されてたんだけど。

でも、あの頃、「タナカ!今回のW杯最軽量、75ケージー!」なんてBBCのアナウンサーにいわれるくらい、日本チームは「参加することに意義がある」みそっこのように扱われていた。

W杯とは違うけれど。
2012年のハイネケンカップは、歴史始まって以来、アイルランドのクラブチーム、レンスターとアルスターが決勝でぶつかるアイルランド人にはたまらない世紀の一戦だった。

ハイネケンカップとはヨーロッパのラグビークラブ王者を決めるもの。サッカーでいうところのUEFAチャンピオンズリーグだ。

それを祝い、アイルランド人のセレブシェフ、リチャード・コリガンが「試合をみにいく前に気合を入れようシャンパンブランチ」を開催すると、ヴィンセントがどこからか聞きつけてきた。

面白い企画だね、じゃあセントラルロンドンまで行ってみよう。

おいしいソーダブレッドやシーフードをシャンパンと共に堪能し、同じテーブルになったラグビーファンのアイルランド親子と談笑していると、シェフご本人が料理を終えてキッチンから現れた。

セレブシェフと話すチャンス!
酔いも手伝って、私はフラリとご挨拶しにいくことにした。

「へえ、日本人なのに、ラグビーが好きなの?
俺たちはこのあとトゥイッケナムスタジアムまでワゴンタクシーを予約してるからさ。なんなら一緒に乗っていきなよ」

アジア人でラグビーというのがめずらしかったのだろう。
そう誘われた。

もちろん私たちはスタジアムのチケットなんて持ってない。冷やかしのつもりで、ブランチを食べにきたのであって、試合はパブで観ようと思っていた。

「いえいえこの後はこの辺のパブに移動して、テレビ観戦するつもりなんです」

そう私はと答えた。
すると、

「おい、確かチケット、余分にあったよな?」

え、え、え?
なんと、セレブシェフ。余分にあるチケットを譲ってくれるという。

気づけば私たちは、声たかだかにレンスターの応援歌を歌う子どもたちに間を挟まれ、シェフ一家と一緒にワゴンタクシーに揺られていた。

ラグビーの聖地、トゥイッケナム・スタジアムで。
ゴール裏の5列目。

しかも後から聞けば、ヴィンセントが代金をと申し出たのに、シェフはいいよといって受け取らなかったという。

まるで夢のような展開。
そしてレンスターの優勝。

今思い出しても、あれって本当にあったことなんだっけ?というような一日だった。

そして。
2015年、イングランド開催のW杯。
あの奇跡的な南アフリカ戦の勝利は、なんど録画を見直しても感動してしまう。

南アフリカ戦のチケットを買うかサモア戦を買うか散々悩んで、ボコボコにされる姿をみたくないと思ってサモア戦を選んだことを、私はこの先もずっと後悔するだろう。

南アフリカ戦の日は、近所のパブに行った。
もちろん紅白のシマシマレプリカを着て。
ヴィンセントにはユニフォーム姿の鉄腕アトムのTシャツを着せた。

でも、そこにいるのは日本なんかに関心のない客か、あるいは南アフリカを観に来たひとたちばかり。
どこにも日本のファンなどいなかった。

緑色が埋めるパブの、端の方で目立たないようにテレビを眺めていた私たち。

でも、後半、拮抗したスコアのままどんどんと試合が進み、最後、日本がキックではなくスクラムを選んだとき。
それまでテレビを見上げることのなかった次の試合目当ての客たちが、ザワッとした声に思わず目を上げ、そして画面に引き込まれた瞬間だった。
あのパブ中が息をのんだ空気。
今もクッキリ覚えている。

そして。

トライの瞬間。

やんややんやの大喝采!

私が着ていた紅白のシマシマに、ホワッと人々の目が集まった。

実は、私は最後ずっとトイレに行きたいのを我慢していた。
でもこの状況で席は離れられない。

試合終了のホイッスルと共に、私は、やったーといいつつトイレに走った。

が。どうやら、クレイジーな日本人が歓喜のあまりパブ中を走り回った、と誤解されたらしい。

「おめでとう!」

トイレに急ぎたいのに、知らない人がみんな声をかけてくる。
握手を求めてくる。

いや、おい、トイレに行かせておくれ。
もう膀胱が限界なの。

「ありがとう、ありがとう」

そういいつつも振り切って、とにかくトイレへ一目散。

いろんな意味で、忘れられない瞬間だった。

いやあ、ようやくいろんな緊張感から解放されたなあ、と、ひとここちついて席に戻ってきたら。
知らないおじさんが、ビールを奢ってくれた。

なにより、これまでずっと恥ずかしがりつつ観戦していた日本ラグビーが、敬意を勝ち取ったような。
そんな瞬間だった。

翌日、新聞の1面もニュースのトップも、イギリスと関係ないはずのこの日本の勝利。

知らない人までがみな

「お、日本人か?おめでとう」

と声をかけてくれた。

暮らしているイギリスで開催されたW杯で、こんな奇跡を起こしてくれるなんて。
本当に嬉しかった。

その4日後。
グローバルの業務プロセス変更で、会社のトップマネジメントに50万ポンドほどの投資承認をもらうため、プレゼンすることになっていた。

午後1時から3時間の会議。
私たちに与えられた発表時間は午後2時半から5分。

そして、それはちょうど日本対スコットランド戦の開始時間だった。

一緒にプレゼンするジェニーは、スコットランド人。
いつもシックス・ネイションズやW杯を観戦する仲間でもある。

「ね、ジェニー。1時からの枠に変えてもらおうよ」

えーっ本気?というジェニーをよそに、私はアドミに時間変更を頼んだ。

そして当日。
私は桜の、ジェニーはアザミのついたそれぞれのチームのレプリカを着て、上層部がならぶ会議室へ。

承認するシニアバイスプレジデントは、南アフリカ人。

私たちの服装にみんな笑いがこみ上げている。

「ええと、これを着てきたことが心象を良くするのか悪くするのかはある意味賭けなんですが。
今日は重要な試合なもので、時間を変えていただきありがとうございます」

お偉いさん、みんなが一瞬南アフリカ人の方をチロ見した後、爆笑。
投資もオッケーをもらった。

残念ながら中3日で戦う日本の勝ち目は少なく、スコットランド戦には負けてしまったけれど。

その4年後、日本が初めて開催するW杯に、南アフリカ戦の勝利は、五郎丸フィーバーは、追い風だな、きっと盛り上がるなと期待していた。

「せっかくだから、私も帰省するから、みんなで一緒にW杯を観にいこうよ」

そういって、トレーシーの家族みんなで日本に行くために、ウェールズ対オーストラリア戦のチケットを最大数の6枚買った。

けれど、トレーシーのお母さんのガンがみつかった。

治療を続けるお母さんをウェールズに置いて、自分たちだけ楽しい思いをするのはどうしてもできないという彼らを、無理やり日本に連れてくるわけにもいかなかった。
私はもう日本行きの飛行機も取っている。
残り5枚、どうしよう。

結局、友達の友達や、友達の息子の友達のお母さん、前の前の会社の同僚だったひと、友達のだんなさんと息子。そんなビミョーな関係のひとたちが暖かく手を差し伸べてくれた。
私の「かならず、ウェールズを応援してください」という条件にこころよく応じてくれて、みんな赤や緑のウェールズカラー。
友達のだんなさんと息子さんは、ウェールズの国歌「Hen Wlad Fy Nhadau」の練習までしてきれくれた。

昨日のサモア戦。

ちょうどハーフタイムの時間合わせたようにアナがヒースローから到着した。

「へえ、今ってラグビーのワールドカップなんだ。
へえ、ラグビーってボールを蹴っても抱えてもいいの?」

ラグビーとはあまり縁のないサッカー大国ドイツに住み、アイスホッケー大国フィンランド出身のアナにとっては、ラグビーというスポーツが新鮮に映ったようだ。

山のように質問を受けつつ、日本の勝利で試合が終了。

「おめでとう!決勝トーナメントに来たら、ウェールズ対日本だなってお父さんがわくわくしてるわ」

トレーシーから速攻でメッセージがやってきた。

日本戦、観ていてくれたんだ!

来週の日曜、アルゼンチン戦。
いい試合結果になりますように。


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