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ゆでたまごの思い出

ザーーーーーーッ。こればかりはケチってはいけない。茹であがった卵はすぐにザアザアの冷水を流しながら、冷やさなくてはいけない。
「そうするとね、殻が剥きやすくなるのよ」
Kさんは、もうキャベツの千切りに取り掛かっていた。

私の生家はパン屋を営んでいて、工場には祖父と父のほかに二人のワカイシュさん(大人になって「若い衆」だったのだと気づいた)が、そして店には祖母と母のほかにYさんとKさんという二人の女性が働いていた。Yさんは休み時間に「お店のひとの部屋」でいつもテレビを見ながらタバコをふかしていてちょっと怖かったけど、Kさんはメガネの奥の目がいつもわらっていて、3人目のおばあちゃんみたいと幼心に思っていた。
だから、Kさんが仕込みの日はランドセルを部屋に置くと、台所におりて行ってよくKさんの手伝いをしたものだ。とはいっても、できるのは卵の殻むきくらいだけれど。
コッペパンのなかに、半円形に切り開いた卵が並んでいるパンは「花たまご」。美人にむけた卵がつかわれる、選ばれし卵の舞台。いっぽう私が上手にむけず、白身に傷をつけてしまうと、Kさんは、いいのいいのとニッコリ笑って、たまごサンド用に刻まれる卵のボウルに入れた。

そんな西日の射す薄暗くくたびれた台所から、もう40年以上経った。故郷から9600キロ離れた街で、今でも、ゆで卵を上手にむけると「花たまご」にできると思ってしまう。

ゆで卵にはもう一つ思い出がある。
高校時代、初めてのアメリカ短期留学のときのこと。語学学校での寮生活のあと、3週間のホームステイに移った。寮生活では日本人の学生たちもいたし、日本語で気を抜ける時間がいっぱいあったけど、なにしろここから先は自分ひとりで360度英語のサラウンドに立ち向かわねばならない。耳を緊張させ、頭の中の単語帳を総動員し、それでも会話はたどたどしい。
相手の言うことはかなりわかるのに、なんで言いたいことはすぐに出てこないんだろう。家までの車中の会話で充分すぎるほど疲労困憊した私は、荷解きを言い訳にようやく日本語の思考に逃げられる…とホッとしていた。と、そこに
「夕飯よ~」
と声がかかった。
また英語のシャワーかあ…と足取り重く席についた私の目に入ったのは、テーブルに並んだおいしそうな焼きたてのステーキと、つややかに光るグリーンビーンズ、ゆでたての色鮮やかなトウモロコシと、そしてスライスしたゆで卵で飾られたポテトサラダだった。
「デリーシャス!」
ポテトサラダを口に入れた瞬間、思わず単語が飛び出した。ソースのテレビコマーシャルで耳に慣れていた単語だったから、タイミングよくためらいなくでてきたのだ。
「サンキュー」
とお母さんがいった。双子の娘たちが
「私たちも大好きなのよ。このサラダ」
と声をそろえて笑顔でいった。
なんだか、大丈夫な気がした。

3週間が終わろうとしたころ、お母さんが一緒にポテトサラダを作りましょうよと誘ってくれた。それまでに、私がおにぎりとみそ汁を振舞ったり、お父さんとBBQグリルで肉を焼いたりしていたから、すでに家のキッチンには慣れていた。
「はーい!」
卵とじゃがいもを大きな鍋に入れてゆでる。茹であがったら、ジャガイモはザルにあげて
「卵はすぐに冷水にいれるのよ」
とお母さんがいった。
「そうすると、むきやすいから」
と私がいった。
二人で見合わせて、にっこりした。
「上手にむけなくても心配しないで。刻んでジャガイモと混ぜちゃうから。1個か2個だけ上手にできれば、それを上に飾ればいいんだから」
日本もアメリカも同じじゃん、と嬉しくなった。また、この家に来たいなと思った。

別れ際に目を真っ赤にしたお母さんが、手書きのレシピをくれた。
「もうわかってるとは思うけど、ポテトサラダの作り方よ。ここはもうあなたの家だから、いつだって帰っていらっしゃいね」

それから30年が経つ。手紙だった双子の娘たちとのやり取りは、パソコン通信になり、電子メールになり、いまでは携帯でグループチャットしている。
ときおり「里帰り」すると、お母さんとお父さんが作ってくれる最初の日の夕飯はもちろんいつもステーキとポテトサラダだ。

今では「妹」とよぶ双子たちの一人は西海岸で弁護士になり、この春にコロナに感染し1か月ベッドから出られなくなった。
もう一人は、中西部に残り医者になり、毎日救急治療室で運ばれてくるコロナ患者たちを救うために必死に働いている。
私はロンドンでロックダウンを守り引きこもって暮らしている。

ゆで卵を作るたびに、ザアザア流れる冷水の中で殻をむきながら、夕陽に照らされたKさんとの時間と、アメリカの家の窓から見えた一面のコーン畑を思い出す。

全部上手にできなくたって、いいんだよ。刻んでサラダに入れちゃえばいいんだから。
大丈夫、だいじょうぶ。

いただいたサポートは、ロンドンの保護猫活動に寄付させていただきます。ときどき我が家の猫にマグロを食べさせます。