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介護からの旅立ち

先週富士山を見に河口湖に一人旅をしてきた。
誕生日を迎えたこともあり、ここいらで一息ついて自然のエネルギーを補給しながら、自分を見つめ直したかったからだ。

特に昨年の11月から私の人生は、見えない何かに後押しされるように進んでいった。
正確にいうと9月くらいからそのメッセージを受け取るべき出来事が毎日のように起きた。
そのメッセージとは決してポジティブなものではなく、何でこんな思いをしなければならないのだろうと思う出来事ばかりだった。

例えばある日、朝から母を病院に連れて行き、帰りに回転寿司で食事をし、量販店で母の洋服を購入した。普通の母娘なら仲睦ましい姿に見えるかもしれないが、ボケた母と一緒に外出するのは心身ともにほんとに疲れる。
気に入らないことがあると病院だろうが所構わずすぐに大声を出すし、洋服を選んでいる時も他のお客さんを押しのけて自分の欲しい洋服をひったくるからどこに行っても私は謝りまくっている。
帰宅後は母の髪を染めて、その後風呂に入れて髪を乾かすが、染め残しがあると文句を言われ、、、。
ここまででも十分ストレスフルな一日だったのだが、その後追い打ちをかけるような出来事が起こった。

その日の夕飯は私も疲れていたので、簡単な炒め物にした。しかしそのおかずが気に入らなかった母は「こんなゴミみたいなご飯出して!」「こんなの食べたくない」とものすごい形相で文句を言ってきた。

その頃の母は、以前は美味しいとおかわりしていたご飯でも、その日の気分でなければゴミご飯と言ってものすごく私を罵ってきた。
唯一文句を言わないのは好物の刺身の盛り合わせ。
しかもまぐろ単品などでは文句をいい、何種類かの刺身が乘っている舟盛りのような刺身を好んだ。
当然うちは旅館でもなんでもないので刺身の舟盛りは毎日は出せない。そのことでもよく母と口論になった。

その日も母の暴言に何とか耐えて、兄に借りていた車を返しに行き、帰宅すると家の中が汚物の匂いでいっぱいになっていた。
母がトイレに行く前にリビングで大きいほうをお漏らししてしまい、自分の汚物を踏んずけて歩きまわっていたのだ。
その姿を見て私は全身から力が抜けた。まずは母を着替えさせて、お風呂でお尻を洗い、その後汚物だらけになっていたカーペットを剥がした。

するとその姿を見ていた母が不敵な笑みを浮かべながら「ゴミみたいなご飯を出すから罰があたったんだ」と罵ってきた。なんというサイコパス。
久しぶりに私の心は切れた。ずっと耐え続けてきたこともあり、気付くと母の胸倉を掴み、「もういっぺん言ってみろ!」と怒鳴り返していた。

このように、9月はストレスの限界を超えるような出来事が立て続けに続いた。
しかしある時ふとこれは何かのメッセージなのではないかと思った。
タイから帰国後母の介護をするようになり、自分よりもいつも母のことを優先してきて2年9か月が過ぎた。
私はもっと自分のことを大切に、自分の人生を優先すべきなのではないかと思った。
そのようなメッセージ的なものを感じてからは、ではこれからどうすればいい?自分はどうしたい?と自問自答するようになった。

そして、母が拒否をするので絶対無理だろうと思われる母の施設への入居を真剣に考えるようになった。
その後、母には内緒で特養、有料老人ホーム含め、6か所の施設に見学に行った。見学をすると様々施設の特徴が分かりとても勉強になった。
そして自分の気持ちも段々固まり、兄から母に施設の話しをしてもらうことになった。
最初に話した時は想定内ではあったが母の反発はひどかった。「何でそんなところに行かなくてはならないんだ」と怒りまくった。怒って、泣いて喚いて大変だった。
以前の私ならこんな大変な思いをするなら私がもう少し我慢をすればよいと思ったかもしれない。でも今回の私は違った。自分の人生を犠牲にしてよい理由なんて一つもないと分かったからだ。

それからも粘り強い説得が続いた。私はもう一緒に生活して面倒は見れないこともはっきりと伝えた。すると母は、ならあんたが出ていけばいい。ここは私の家なんだから私が一人で生活すると言い張った。当然今の母は一人で身の回りのことはできない。
母の意見は日ごとに変わった。今の母を知る友達からは施設の方が安心だから娘さんのためにも施設に行った方がよいと説得され、ボケた母を知らない久しぶりの友達にはなぜあなたが施設に入らなければならないのかと同情され、その度に母は一喜一憂した。
しかし私は、自分の人生を生きるとの気持ちに揺るぎがなかった。
すると不思議と母の施設への入居を後押しするような出来事が起こった。
母の50年来の友人が亡くなり、弔問に伺った際、その亡くなった友人の娘さんやお孫さんから強く施設への入居を説得されたのだ。おばちゃんだけはお母さんの分まで長生きしてと。
すると今まで誰の意見も聞かなかった母が初めて前向きに検討するといいだしたのだ。

その後は目まぐるしくことが進んだ。母も渋々だが施設への入居を了承してくれ、体験入居などもした。そして喫煙ができて、顔なじみのスタッフがいるという理由で今までショートステイとしても利用していた特養で入居の順番を待つことにした。
それと同時に私も約3年ぶりに就活をして都内で仕事をすることになった。
実家の近くの職場ではなく、あえて少し距離のある場所を選んだ。1か月の研修中は通勤は大変だったが私も実家から通い、母も特養の順番が回ってくるまで、自宅とショートステイを半々で過ごすことになった。
自宅で過ごす時の食事は宅配弁当にして、その時だけヘルパーさんに補助してもらった。
母も一人で毎日味気ない弁当を食べる生活を繰り返す中で、少しずつ施設入居への心の準備をしていった。
そして私の研修期間が終わる頃、運よく特養の順番が回ってきて、母は無事施設へ入居し、私は職場の近くで一人暮らしをすることになった。

今私は職場の人たちにも恵まれて楽しく充実した毎日を過ごしている。
同僚と休憩時間に話したり、好きなご飯を食べたり、誰にも邪魔されず好きな時に寝て、好きな時に起きる。そんな何気ない日常がとても幸せなのだ。

母からは寂しいと定期的に連絡がくる。
私も月に2回くらいだが、面会に行ったり、外出して母の好きな刺身定食を食べに連れて行ったりしている。
少し距離を置いたことで、母も以前のように暴言を吐くことが少なくなったし、私も少し心に余裕ができて優しく接することができるようになった。
そして母が存在してるだけで有りがたいなと何ともいえない感情も湧いてくるようになった。
何が正解かは分からないが、私は今回自分の人生を優先する決断をして良かったと思っている。

久々に富士山を間近に見て思った。
富士はいつも堂々としている。
見る側によって、富士山は陰にも陽にも映る。
でも富士山はいつも変わらずに不動なのだ。
私もそんな一本筋のとった自分で人生を歩んで行きたいと思った。





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