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雀のメモ帳 おじいちゃん仮説

 動物で老後というものがあるのは人だけだそうだ。その不思議。
これにはなんらかの理由があるはずだ。無駄に生きているはずはない。

じいちゃん仮説
 67才の私、まだ老害と言われる歳ではない。
さて、私の子供の頃、信じられないかもしれないが、5才の時にテレビが家に来た。電気屋がテレビを据え付けた頃には、近所中の子供も大人達も家の居間に座っていた。

小学校時代のお稽古ごとは、ソロバンとお習字だった。
読み書きソロバンと言われていた時代だ。今は「英語とプログラム」
日本語は日本人として育つために大切だと論じてる本(日本語が世界を平和にするこれだけの理由)を最近よんだけど、その通りだと思う。それと計算力も日本人の特質だと思う。なんかよく分からない教育だ。

日本語の文法を英語に無理に合わすことはない

 さて中学校に入って。初めて電子計算機を見た。普通の電卓だけど、学校に1台だけあった。

結構大きい

 高校時代、工業科の私は計算尺を使っていた。デカい汎用コンピューターは学校にあったが、パソコンはまだそんなものがあることさえ知らない。
この時代はバイクに夢中で、乗る事もいじることもしていた。

計算尺 もう使えない

大学にはいると理工学部の私は関数電卓が使えた。結構な値段だったが買った。使い易くはない。

1980年代の関数電卓

その頃、研究室でオシロスコープみたいなマッキントッシュのPCを始めて見た。当時はゲーム機だと思っていた。これが初めて見たパソコンとなる。

こんな感じ

 1981年、東芝の関連会社に入る。
私が初めて触ったパソコン(PC)は東芝のDOS/V機だった。その後世界初のラップトップPCを触った。事業部に3台ほどあったJ-3100だ。
設計部門だったので、実験的にCADも使っていた。AutoCADの日本語マニュアルを作った記憶がある。

TOSHIBA J-3100

 初めて買った自宅のパソコンはDOS/V機(Windoes3.1のOS)。それから現在14,5台目となる。
インターネット接続はモデム時代からだ。
まるで儀式のような段取りと設定で接続するが、直ぐに切れる不安定さ、メールの受信中にぶち切れる。1MBのデータのダウンロードが永遠と終わらない。CDの書き込みに1時間かかった。その後、リブレットという持ち運びする小型PCを3世代まで仕事用で所有した。これは名器だった。リブラーだった。

 世界が終わると煽っていた2000年問題、会社に泊まり込みで正月を迎えた。会社のビルから見える多摩川が朝日に輝いている以外なにも起こらず。
世界は茶番だった。

 それでも続くITマジック。
2001年、21世紀初頭、仕事でウェアラブルPCをプレゼンしていた。メーカーでは実現可能だった。持ち運びのPCなど情報システムのアイディアは大昔からあった。

1998年、自宅でも仕事をするようになる。電話とFAXは必携
ゲームをする息子
Linux仕様としたリブレット

 社内ネットワークは当初Netwere  IPX/SPXを使っていたが、インターネット技術の怒濤の波のなかで、社内ネットワークをIP化した。また手書きの設計はほぼCAD化した。

 今はスマホという、だれでも手元にネット接続出来る小さなPCを持つ、そんな時代になった。
それが一番の驚きだが、長年情報システムのインフラに関して仕事をしていたので、その技術には驚くこともない。
スマホの走りの時代、私は会社の製品 REGZA Phoneを買っていた。

スマホの大衆化、これは通信帯域の大容量化とメモリの大容量化などハードやインフラ整備が整い、システムがブラックボックス化したから実現可能になった。

 技術革新は昔からくり返していたことだ。それと今の技術はインフラも含めてネットワークやPCなどのハードとプラットフォームがブラックボックス化して、誰でも出来るもようになったから可能になった。
メタバースも20年前のセカンドライフだ。
つまり今の最先端技術は昔からのアイディア(SF)がハードやインフラ整備で可能になったと思っている。

 個人的にはホログラムが凄いと思う。目の前でホログラムのアイドルが歌っているのをソニーのプレゼンで見たことがあるけど凄いと思った。これは感動した。

私的な意見だけど最近の技術革新は金儲けの匂いが強すぎると思う。

 今一番怖いと思うことは、インフラやハードが細分化してどんどんブラックボックス化されていくことだ。基本を知らない技術者が多くなっている。教科書で知っているだけで実際を知らない。
蛇口を開けば水が出てくる。スマホ開けばネットと繋がる。でもどうしてかは知らない。興味もない。

 情報から離れるけど、バイクや車から消えたキャブレター、インジェクションはセンサーやファームウエア込みの調整など個人では無理だ。
解体屋で部品探して車を修理していた男(私)が、自分で整備することがなくなった。今や内燃機関を理解している20代は少ない。私の世代は10代から理解してバイクを改造していた。

 産まれた時からあるブラックボックス化したシステム、プラットフォームを利用するだけの人が、老人を時代から遅れていると老害扱いするのはちょっと考えが浅いと思う。
技術というものは、過去からの積み上げからあるもので、突然湧いてきたものではない。

 そんな経験と技術の盛衰を見ていたじいちゃんは当面は必要になる。経験値、経験主義、今も不足している重要なファクターを埋めるのが爺さん達だ。
 遙か昔の縄文時代からも長老は大切な知恵袋だった。生存に関わる知恵を持っていた。
だから老化しても生きながらえる必要があった。
これが「おじいちゃん仮説」となる。(個人の主観です)

2024年2月スッキリとなる。

 この歳になっても、創造する人生は素晴らしい。損得を考えるだけの人生はやはりつまらないと思う。またそうなると本当の老害となる。この意味で、若害(こんな言葉ない)もあると思います。

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