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Endurance Raceを続けたその結果  富士登山競争は別格だった。

1989年、70キロトレイルラン
 ここは山梨県都留市の林道だ。山犬5匹に囲まれていた。
「大変やばい状況だ」
捨てられた、または獲物を追って行方不明になった犬だろうか、野犬と言ってもいいが、恐らく山で餌を捕っている。午後5時、そろそろ日が暮れる。

 犬の餌として、食べ物は補給食のゼリーしかない。ゆっくりと犬たちの横を通り過ぎる、リーダーと思われる犬の目は見ない、でも動きは見ながらそっと歩く。
なんとか犬達から5m程度離れたので、背中を向けてゆっくりと走る。
1キロほどで、犬たちの気配が消えた。走る速度を上げる。
 
 山の中から抜けでると、眼下にススキの原が広がっている。
夕焼けだ。世界が茜色に染まっている。富士山が黒いシルエットで目の前に迫ってくる。ドーパミンの効果か、異常に感動している。 
神奈川の上野原駅前から、山道をすでに6時間近く、60キロ走っている。山中湖が夕日に光る。ゴールも見えてきた。

Endurance Race (超・長距離レース)
 私は、当時としては珍しいEndurance Race (超・長距離レース)、トライアスロンをメインとしてレース活動をしていた。当時それが私のライフワークだった。つまり人生の全てであった。
モトクロスレース引退後、自転車(ロード)にハマり、偶然か必然かトライアスロンを始めた。この時30才だった。

 1985年、ここからEndurance Raceを63才まで切れ目無く続けていた。
トライアスロン以外では、自転車(ロード、マウンテンバイク、シクロクロス)スイム(競泳、遠泳)ランニング(マラソン)とあり、1年中練習とレースの連続だった。

55才の時、娘2が並べて遊んでいたので、記念撮影する

ついに倒れる
 これをやり切る為、常に練習時間を捻出するサラリーマン生活をしていた。通勤ラン、通勤自転車、夜スイム(夕飯前なので、腹が減ってしかたない)
 ジジイになって、少しはその時間も減ったが30年以上こんな生活していた。そして子供3人大学を卒業させて、家のローンも終わり、20年続けたベンチャーといえる会社をたたんだ2021の夏、倒れた。
出血多量で行き倒れた戦士みたいだった。
 家族は単なる不摂生だ、飲み過ぎだと言うが、この際格好をつけたい。

マッドコンディション
マウンテンバイクレースはしんどい

ステント兄弟
 私は64才で急性心筋梗塞を起こした。家族性高コレステロール血症(FH)ではないが、遺伝的に親父も弟も、狭心症、心筋梗塞を煩っている。弟は50代で心筋梗塞を起こし、ステントを入れている。私はカテーテル3回、左右の冠動脈とそれ以外に3箇所、計5箇所にステントを入れた。
まさにステント兄弟だ。

寿命が延びる
 倒れた時はICUで、死にそうなったが、一応練習が出来るまで復帰はしている。理学療法士に言うには、たまにそんな人もいるそうだ。ただ私の場合、一時的に心臓が止まるほどの重症だったので相当珍しいようだ。
医師にも「理由は特定出来ないけど、寿命が延びましたよ」と言われた。
 これも30才から60過ぎまで持久力(Endurance)スポーツを途切れなく続けた事。それが寿命を延ばしてくれたと思っている。

LSD(Long slow distance)
 ここでいう運動とは、チョコザップ系の短時間の運動ではない、LSD(Long slow distance)を主体とした運動だ。
 有酸素運動というものだ。これは持久力をつける運動。ちなみに持久力とは疲労の発生を遅らせて運動を継続する能力だ。
有酸素能力を高めるためには、相当の忍耐力が必要だ。特にアイアンマンという超距離のトライアスロンは、10時間程度、ある程度の負荷で運動を続ける持久力がいる。

最後のランは本当につらい

持久力
 持久力トレーニングに関する科学的研究は色々ある。
一般に持久力トレーニングがもたらすものには、VO 2maxの向上、筋肉に血液を供給する毛細血管の増加、ミトコンドリア密度の増大、血液量の増加、一定強度での運動時の心拍数低下などがある。
この辺りは説明が面倒なので、専門書をお勧めする。
 おそらく私は現在でもトライアスロンに参加出来るだろう。でも今更完走だけのレースには感動もない。人生引き際があるので引退した。
その代わり、もう一つの趣味アウトドアスポーツに重点を置いて遊んでいる。

昨年の天草灘でのシーカヤック、島原半島が見える

 さてこの辺りから本題、トライアスロンを70回以上(細かくは忘れた)、競泳、遠泳、マウンテンバイクレース、ロードレース、マラソン、トレラン色々なレースに参加したが、一番キツいと思ったレースと言えばこれだ。

富士登山競争
 7月の第4金曜日に国内屈指の過酷なトレイルランとして富士登山競走がある。
富士吉田市役所前をスタートとし、富士山吉田口登山道を舞台に山頂まで、全長21キロ・高低差約3000メートルを登る?走る。制限時間は4時間30分、完走率は天候により50%を前後する。

獲得標高3000m
2023年コロナ禍から復活

 このレースに1987年に参加した。会社のスキー部(ノルディック)と昼休みの練習で、当時勤めていた府中にある大工場の周りを走っていた。1週5キロだ。顔見知りになった部員達に富士登山競争に誘われた。
それが、どんなレースか知らなかったが、参加することにした。
前日受付が基本だが、仕事も忙しく当日移動となり、受付はスキー部に任せた。

 試合当日、朝3時半に、愛車のダットサントラックで富士吉田に向かう。
板バネのサスペンション、ベンチーシート、乗り心地は悪い。

ダットサントラック カスタム 24才から33才までの愛車だ。

 7時にスタートする。5合目(15キロ)の足きりが2時間位だと思っていたので、そこまでは結構なペースで走る。登山道に入ってからは、階段は歩き、後は走る。しかし8合目からはほぼ歩きとなる。

 朝早くの移動、仕事の疲労もある。足が動かない。息が苦しい。それでも登り続けた。
「甘く見ていた」
日帰りで富士登山、それも走って登る、なめきっていた。
制限時間は4時間半、何とか4時間19分でゴールした。完走者の50%に入った。
「寒い」
ランパンとロングスリーブだけでは夏でも頂上は寒い。気温5度だ。暖かいうどんを食べる。
しかしゆっくりしてられない。時間は12時半、5合目まで降りないと送迎バスがない。そのバスも3時が最終だ。

 今度は火山灰のコースを走り下る。しかし膝ががくがくで何度も転び、足は血だらけだった。それでも根性でバスに間に合う。

 疲れたが、ここで1泊とはいかない、明日も仕事が8時10分からある。
そのままダットラで高速を走って帰ったが、途中で居眠り運転をしていた。
ここで死んだら身も蓋もない。
危険なのでパーキングで寝る。寝過ぎた。帰宅すると朝だった。
そして、出社し8時10分始業。設計業務なので体力的には楽だが、居眠りを繰り返していた。
「もう、二度と出ない」とその時は思ったのであった。

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