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トライアスロンの日々 (バイク編) 意地悪した幼なじみの女の子、彼女の弟と走った。切ない思い

1987年の春 出会い
「こんにちは」
自宅の近所で同い年くらい、30代くらいの女性が私に声をかけてきた。
「誰?変な営業」
つい最近「車に誤発注したスーツがあり、安く売るから買ってくれ」と若い男が声をかけてきた。手であっち行けとするとなんと喧嘩売ってきた。本当にいい迷惑だった。
昔から「手を替え品を替え」延々と続くこの手の商売。

「私だよ、覚えてない、この前弟が世話になって」その瞳が黒く大きな目の女性が言う。思い出した。
「おーっ、井本か」暫く会ってない、小学校卒業以来話するのは初めてだった。
「弟からロードバイクの練習に一緒に行ったと聞いたので、驚いたよ」
「あれね、なんか才本の友達だということで、一緒に奥多摩へ行ったんだ」
「トライアスロンやっているのでしょう? テレビで中継された琵琶湖のアイアンマンで名前がでていたよ」
「うん」そうだった。テレビに犯罪以外で名前が出た。
井本は、目が大きく、ストレートの髪で、美人だった。今も変わらずに美人だ。
同じクラスになったことはないが、家が近所だった。
一度、小学校6年生の頃、私が彼女の友達を困らせているときに、助太刀して、私を問い詰めたことがあった。

新聞部の揉め事
事の初め、私は小6の部活として新聞部に入っていた。その井本の友達も新聞部だった。
その子は智路という苗字で、本好きな文学少女だった。井本も図書係、つまり本好きだったと思う。
私は当初、新聞をガリ版で作るのが楽しく。記事も色々と集めて汚い字で原稿を書いていた。
その少々内気な智路とも楽しくやっていた。

しかし、夏を過ぎた頃から私は地元でサッカーチームを作り、学校終わったら、練習をするようになり、新聞部に全く行かなくなった。
新聞部、唯一の男で、活動的な私を欠いて部活動が頓挫気味だった。
そこで、智路に「部活をきちんとやってください」と言われた。しかし、自分の運動部気質が勝り、その言葉を無視していたのだ。
内気な彼女が勇気をだして私に言ったと思う。

その次の日、憤慨した井本が智路を連れて、私を説得にかかる。今思えば、小学6年生として、2人とも本好きで、落ち着いた雰囲気のある大人っぽい女の子だった。
説得は上手くいかず。私は二度と新聞部には行かなかった。

卒業文集を読む
大学生の頃、小学校の卒業文集を偶然手に取った、なんとなく思い出し、智路の文章を読んでみた。そこには私がいなくなり、裏切られた。悲しかったと書いてあった。私の実名とかはなく、抽象的な文章だったが、該当者は私だろう。
少し罪悪感を覚える。
はっきり言えば新聞部へ顔だす程度の時間はあったのだ。今の私なら絶対になんとかしたはずだ。子供だったからしょうがない。
だけど、人って知らぬ間に人を傷つけるんだなと思った。

昨年の夏
スイミングクラブのマスターコースで泳いでいた時
「おーいぃ」
向こうの中級コースで手を振っている背の高い男がいた。ゴーグルしてスイムキャップを被っていると誰だか分からない。
練習後の更衣室で、その男がだれだか判明した。中高同級生の才本だった。仲のいい友達だ。
「久しぶり、どうしたんだよ」と聞くと
「水泳の練習を始めたよ、トライアスロンでるから」
「そうかぁ」驚く私。
「池さぁ、琵琶湖のアイアンマンの放送で、テレビに名前でたよなぁ」
テレビ放映で完走者全員の名前が最後にテロップでながれたのだ。

それ以来、才本とスイムの練習でたまに一緒になる。冬にはスイミングクラブの有志で筑波マラソンへ遠征した時も一緒だった。
そして、春になり山にバイク練習へ一緒に行くことになった。
その時、才本がトレーニングジムで知り合ったという若い子を連れてきたのだ。その男が井本の弟だった。

昔の奥多摩市民の森
1986年、ロードバイクとケイリンの自転車の区別もつかない人がほとんどの時代。
街の中でヘルメット被ってロードバイクを走らしていること自体が珍しかった。
ロードバイクの練習方法などほとんど知らない。
練習コースなども知らない。100キロ以上の距離を走る地図も頭に浮かばないし、そもそもGPSもスマホもない。あるのは道路標識だけだ。

それでも私は元々オートバイのライダーだったので、昔走っていたコースを思いだす。その道しか知らない。

21世紀、五日市辺りの林道 車両通行止めで飛ばせる

そんなことで、地元調布から山と言えば、20号線で高尾山から大垂水峠を越えて相模湖。帰路はピストン。(距離約100キロ)
または五日市街道から奥多摩湖の有料道路を越えて青梅街道から帰る。 (距離160キロ)
この2択を繰り返していた。
今回、才本と井本の弟とは奥多摩コースへ行くことにした。

日曜日、今ならロードバイク(自転車)も沢山見るが、この時代、奥多摩の坂を登っているのは私達だけであった。
後はオートバイだけだ。頂上付近の駐車場に沢山バイクライダーがたむろしていた。

さて、下りに入るとロードバイク(自転車)でも結構なスピードとなる。元々オートバイ乗りなので、コーナーなど下手糞なオートバイなど抜くことも出来る。
しかし、危ないので、後ろについていた。
自転車に煽られて、前を走るオートバイ(ロードタイプ)が慌てたのか転んだ。コーナーの入り口で滑ったようだ。おそらく前輪ブレーキのかけすぎだろう。
昔のオートバイはタイヤ性能も悪いし、簡単にロックする。

「おっと危ねー」
コーナーの速度は40キロ程度だったので、怪我はなさそうだ。そのまま抜いて、ダウンヒルを楽しむ。私達、3人はまだ30代、20代だったので、元気よく走り続けた。

1987年に戻る
目の前にいる井本が言う。
「弟が、池さん凄いよ、自分を置き去りにして、どんどん登っていったと言ってたよ」
「そうか、まぁね」なんだよ、私に惚れたのかとかと勘違いしそうになったが、
「今度、私の彼氏と練習してくれない、彼もトライアスロン出場を目指しているの。今ねぇ、市営体育館でトレーナーしているの・・」後半の話は頭から消えていく。
「そうね、また連絡するよ」と言って別れた。
無論連絡する気は無い。
私はまだ小学校の頃とあまり変わらない心の狭い男だった。

1980年代のクロモリのロードバイク

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