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第17回 分裂する像――あるいは犬居さんという実存について


 こんにちは。自分は同人小説を書いている転枝という生き物だ。
 今回は少し長くなるnoteかもしれないが、ともかくとして話題は絞っていこうと思う。

 今回取り上げさせていただくのは、犬居さんというコスプレイヤー兼イラストレイターの方だ。弊新作『爪紅乙女』の表紙イラストを描いていただいた三好まをさんというイラストレーター様に、ぼくが参考資料としてあげた画像に含まれていた自撮りが、犬居さんのものだった。URLを貼っておくが、アニメ『ガールズ&パンツァー』の大洗女子学園の制服を着た犬居さんの写真がそれにあたる。


犬居さんをフォロー(転枝ではないサブアカウントが最初だが)してから一年以上、非常に男性目線で汚れているなと自己嫌悪しながら、それでも「よい」と思える自撮りやイラストを多く上げている方で、こういった形で関われたことを幸福に思っている。


犬居さんというコスプレイヤー


 犬居さんという方について語る上で、ぼくが大変興味深いと思っている点はその「中途半端さ」だ。これは決して否定的にもの申したいということを意味しない。本人がツイッターでも発言していた通り、犬居さんの肩書というものはハッキリとしてあるわけではない。便宜上コスプレイヤーという表現をしているものの、本来はイラストを投稿するつもりでツイッターアカウントを開設したという経緯を聞いたこともあり、この文章を書きながらもこれだという表現を見つけることはできないでいる。


 それでも犬居さんの魅力として、ぼくが見るかぎりでは一定の承認欲求を満たしつつ、単に友人とのコミュニケーションを大切にしているためにもSNSを活用しているという点だ。それは非常に一般的なSNSの活用法ではあるのだけれど、同時になにか特定のことを「しなくてはならない」という状況に自らを置いていないという要素を持っている。ぼくはこれでもコンテンツを作る人間であるし、そのように振舞おうとしている。転枝というツイッターアカウントでは、純粋な友人だといえる人間はほとんど繋がっていない。けれど犬居さんは、コンテンツを作り、あるいは自らがコンテンツとなりつつ、それが義務ではないという世界に身を置いている。自由なインターネットの活用をしているという意味では、ぼくは彼女の行いをとても見習いたいと思っている。自分で自分に課している制約というものは少ない方がいい。こんなのは当たり前のことだ。もちろん犬居さんには犬居さんなりのポリシーがあってやっていることも多いのかもしれない。ぼくが知ったような口をきいてはいけないのかもしれない。それでも、今あげた特徴がとても魅力的だと、少なくとも僕の目に映っているのだということは、ここに記しておこうと思う。



『爪紅乙女』での自撮り


 さて、そんな犬居さんについてぼくが書いている理由の一つとして、この春に発売されるぼくの新作の表紙に犬居さんが関わってくださったからだ。では小説と犬居さんはなんらかの関わりがあるのか、それについても書いていこうと思う。


 今作『爪紅乙女』は女子高生が主人公の作品だ。恋人やセックスフレンド、あるいは同い年の少女たちとの交流のなかで学内の落書き事件にまつわる物語が展開されていく、恋愛とちょっとした推理要素がミックスされた退廃的な小説。このストーリーで、主人公アメノヒは恋人のモクセイからの欲情を得ることができず、彼がスマートフォン越しにコスプレイヤーの画像を見ながら勃起している状態で、彼の性器を刺激するというシーンがある。アメノヒはそのコスプレイヤーに酷く劣等感を抱きながら、自分もそのコスプレイヤーのなにかを真似られないかと考えるようになる。結果として真似ることになるのが、タイトルにもあるように爪紅=ネイルとなるわけだ。


 主人公はそのネイルを塗った後、鏡に映った自分をスマートフォンで撮影する。その描写は完全に犬居さんの写真を参考にしたポージングをさせており、はっきりと「パクった」つもりだ。この小説内で犬居さんをモデルとしたのは主人公なのか、それとも件のコスプレイヤーなのか。それはぼくには決めかねるところではあるが、少なくともこの作品のなかで美しいとされるような写真は、犬居さんのものを最高峰としていることだけは確かだ。


そもそもスマートフォンでの自撮りとは
 
 

 ここで一つ、作品ともちょっと離れた話をしたいと思う。それは「スマートフォンでの自撮り」という行動やそこで起こっている事象についての細かい思案だ。


 スマートフォンのカメラというものについて、皆さんが知っている知識とはいかようなものだろうか。もはや携帯のカメラについている性能を超えていて、利便性が高くどんなときにも使えて、SNSでシェアするにはスマホしか使わないとか、そんなところだろうか。


 技術的な話にはなるが、従来のフィルムカメラなどは時間にして一瞬の出来事を、一枚の画像にするという技術で作られていた。光を浴び感光剤が化学変化を起こすことで像が結ばれていくという、人間の目に近い仕組みはそのほかのイメージセンサーや銀塩を用いたカメラでも変わることはない。


 しかし、スマートフォンのカメラというものは一瞬の出来事を一枚の画像にするという終着地点こそ同じではあるが、その過程は大きく異なる。スマホのカメラは写真を撮る際、AIが複数枚の写真を連続して撮り、一枚一枚の画像のノイズを消していくことで一枚の高画質な画像を生成するのである。この過程で光量やピントにも加工が行われることになり、その加工を行うAIの違い=カメラアプリそれぞれの違いになるということだ。

 これはなかなかおもしろい話で、ぼくが見てきた犬居さんという人間は、複数の犬居さんが重なってできた画像によって表現されていたのである。スマホの写真技術が複数枚の画像の良いところを選りすぐるということであるとするのなら、そのスマートフォンで支えられているSNS文化で生きている人間が、複数のやりたいことをもちながら、その部分部分を選りすぐって活動しているということと重なっているのだ。


 そのどちらが卵でどちらがニワトリで、だなんて話は不毛だが、おもしろい一致としては記憶しておこうと思った。


 そして、今や自撮りというとスマホの専売特許のようになっているが、このことも技術としては納得できるのである。つまりは旧来の写真は「自然」をただ写す、文字通り「真実を写す」ものだった。これがスマホの時代では「真実を創る」ものへと変化したといえるだろう。現代で、人間は初めて写真を自分でコントロールできるようになったのかもしれない。あるいは技術に使われるようになっただけなのかもしれないが……。

この話の参考文献、ぜひ読んで欲しい一冊だ。


『爪紅乙女』の青春


 ぼくが『爪紅乙女』で書きたかったのは、そういう分裂した個が一つに統合されていく様子だった。主人公のアメノヒは矛盾を大きく抱えている。人によっていうことも異なるし、同じ言葉に感じることも異なっている。人間とは矛盾していたり、一つの方程式では解けないような特徴を備えているものだったりする。自分のやりたいことと、自分のできることが異なったり、あるいはそのギャップを埋めるために努力をしたりしている。


 犬居さんが語ってくれたことで「あのアカウントは本来絵を上げるために作ったんです」というエピソードがあった。ぼくはその言葉に感動を覚えた。そして、ずっと絵を描き続けているその姿勢にも、敬意を感じている。犬居さんは複数の自分が重なった、AIによって合理化された画像と、自分が長い時間をかけて作った一枚のイラストを並べるようなメディア欄を生成している。ぼくの書きたかった混濁が、その生き方に表れているような気がした。その現象に少しでも近づけるような芸術を、ぼくは三週間で書いた十五万文字に詰め込んだ。『爪紅乙女』は、複数の自分のノイズと向き合った青春を書いたのだ。「本来私はこれがしたかったのだ」と、言ってくれるような少女を書けていたら、犬居さんへの返礼となるのだろうか。それはぼくが決めることではないのかもしれない。

最後に、犬居さんの画像とイラストを並べさせて終わろうと思う。よく見ていってくれたまえ!!!!!

元写真


爪紅乙女

イラストレーター様の三好まをさん

表紙デザイン協力のあきらどさん


おわりに 


 創作と自撮りの狭間で揺れ動いている女性を書こうと思ったとき、犬居さん以上にぴったりなモデルが見つからなかった。ほとんどこの問題を体現していたとしか言いようがない。ぼくはたまたまのネットサーフィンで見つけただけのアブみたいなものなのだ。犬居さんの作った巾着などに小物を入れてたまに散歩をしたりしている、ただの一ファンだ。

 そんな駄文に付き合ってくださってありがとうございました。よろしければ、犬居さんのフォローをお願いしたい。

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