【日本史への問題提起】 『王政復古の大号令』で「将軍」とともに廃止された「見逃されがち」な制度
こんにちは。
私のプログのテーマが、かなりブレてしまい恐縮ですが、今回は「日本史」です。
それも、明治維新期における「王政復古」に焦点を当てます。
私は最近、津田左右吉が著した「明治維新の研究」を読み、その中で「『王政復古』とは何だったのか」について考えさせられました。
一般的な「王政復古」の認識
「王政復古」とは、明治維新の一連の中で行われたもので、「『政治の実権』を幕府から、天皇を中心とした朝廷に戻す」ことと認識されているかと思います。
別の言い方をすれば、源頼朝を征夷大将軍に任じて以来(後醍醐天皇の「建武の新政」や、戦国時代等を除いて)続いてきた「武家政権」から、「天皇中心の政治」に『戻す』、とも言えましょう。
しかし、「王政復古の大号令(以下、大号令と記す)」を改めて読んでみると、上記のように素直に解釈してよいのか、という疑問が湧くのです。
「大号令」の中の一文を掲げます。
「王政復古国威挽回ノ御基被為立候間自今摂関幕府等廃絶即今先仮ニ総裁議定参与之三職被置万機可被為」つまり、「王政を復古させて、国威を挽回させるために、摂政、関白、将軍を廃止し、これからは仮に総裁、議定、参与の三職を置いて決定する」となっているのです。
実は『武家政権』以前の制度の否定でもあった?
「大号令」では、将軍とともに摂政、関白をも廃止されているのです。
摂政、関白といえば、藤原氏による「摂関政治」、より遡れば聖徳太子(厩戸皇子)が摂政の任にあたっていました。
決して摂政、関白は連綿と続いてきたわけではありませんが、「武家政権」が続いている中でも、藤原氏の血を引く「五摂家」を中心に摂政、関白に就任しています。(途中、豊臣秀吉・秀次が関白に就任してますが、これは当時の権力事情が絡んでのことでしょう。)
この摂政、関白が廃止されたことは、将軍(こちらも、大伴弟麻呂、坂上田村麻呂以来と考えると長い)とともに長年続いていた制度が廃止されたのであり、『武家政権』のみが廃止されたと考えるのでは物足りないのではないか、と思うのです。
むしろ、『武家政権』に加え、一部ではあっても『朝廷内の伝統』をも否定しているものとも考えられるのではないでしょうか。
事実面でも『御一新』?
なぜ、将軍とともに摂政、関白をも廃止されたのか。
それは、当時摂政であった二条斉敬が佐幕派であり、その影響力を削ぐためだった、ともされています。
ただ、二条斉敬個人の立場の問題で、長年の慣例とされていた摂政、関白をこうもあっさりと廃止できるものなのか。
先ほど指摘したとおり、摂政・関白が実権を握っていたとされる平安期はもちろん、武家政権になった後も、天皇と摂政・関白との結びつきはあったのです。だからこそ、幕末期に二条斉敬は摂政の地位にあったのです。
そこで「王政復古」の際に、摂政・関白の廃止を実行してしまったということは、伝統を重んじる朝廷内の慎重派をも排除した上で、強引な決定がなされた、と考えられます。
実際、「大号令」を決定した際、討幕派の公家・藩士以外を締め出して強引に進めています。となれば、朝廷内にも「そこまでするか!」と憤慨した者や、この後冷遇された者はかなりいたのではないかと考えられます。
ただ言えることは、「大号令」とは、単に「天皇中心の政治への『復古』」のみならず、「朝廷内の制度も一新して政治運営を行う」ことを宣言している、とも考えられるのです。
端的に言うならば、「(新政府に反対する)武家、五摂家には政治に口を出させない」ということになるでしょう。
明治維新による改革が進んだ当時、庶民の間では「御一新」と言ったそうです。実際に制度が変わる真意まで理解されていたかは別として、長年にわたり運営された制度が廃止され、新たな制度の下で政治を進めようとしたという意味では、事実面でも「御一新」であったとも言えましょう。
『復古』は正統性の強調?
ではなぜ、新政府側が「復古」を前面に押し出したのか。
それは、「『天皇中心の政治』が元々あるべき姿である」という『正統性』を強調するため、と考えます。(このあたりは、おそらく一般的な認識と変わらないのではないかと思います。)そして、「大号令」に記されている「摂政・関白の廃止」はあまり触れられたくない「タブー」だったのではないか。
先ほどの「大号令」内でも「摂関将軍」と簡潔に書いているのは、それが「朝廷の伝統」の否定とも取られると不味いという心理が働いたとするのは、勘ぐり過ぎているでしょうか。
そもそも、政治を運営していく上で「正統性」が無いと、誰も納得しません。特に事実上統治者が変わるという場合は、「なぜ新しい権力者に従わなければならないのか」という疑念に対し、権力者側は、正統性を明確に主張していく必要があります。だからこそ、新政府側は「復古」を強調する必要があったのでしょう。
「摂関廃止」はカモフラージュしたかった?
そして、考え様によっては「伝統の象徴」にもなりかねない摂政、関白を廃止することは、対外的には「大した問題ではない」ということにしたかった。あくまでも想像ですが、『伝統の強調』という意味では、将軍の廃止を強調し、同じく長年の伝統である「摂政、関白の廃止」は「ついでに無くした」という軽いニュアンスにして、カモフラージュしたかった、というのは考え過ぎでしょうか。
このあたりは、「江戸時代における摂政・関白の存在意義」にも関わることですが、ただの「慣習」のみで続いてきたのであろうか。
別の見方をすれば、新政府側の公家出身者は、決して公家の中では高い身分ではなかった。
そこに「五摂家」という、高身分の公家出身者が新政府の政治に口出しされるのは都合が悪い。それなら、将軍とともに摂政、関白を廃止してしまった方が自分達がスムーズに政治を運営できる、と考えたのではないでしょうか。
このあたりについて研究した本を探したのですが、力不足のため見つかりませんでした。
私自身も、平安期以降の摂政・関白の役割を調べることができたら、と考えています。(情報があるとありがたいです!)
「摂政・関白の廃止」に関心が向かない理由
このように、「明治維新」の一連の動きの中で、「摂政・関白の廃止」はあまり重要なことではない、とされていると思われます。
また後年の大正時代、後の昭和天皇が摂政に就いていることから、少なくとも「摂政」の概念は続いている、と考えられていることもあるでしょう。
しかし、後の昭和天皇が摂政に就任したことは、大日本帝国憲法及び旧皇室典範に基づいており、「王政復古の大号令」以前からの連続性を認めることは難しいのではないでしょうか。
「政治制度」という面から歴史を考えるにあたり、「長年続いてきた制度が廃止されたこと」の意義を考えることは大切なことであると思います。
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