見出し画像

53.世紀初めに「世紀末ウィーン」を思う

         写真「ウィーン都心のケルトナー大通」(撮影:筆者)

 サバティカルの滞在先にウィーンを選んだことには、ほかにも理由があります。それは高校時代に、社会や経済に関してはマルクス、人間の精神に関してはフロイトの著作を面白がって読んだものでした。

 これらのうち、マルクスはプロイセンの人です。が、フロイトはウィーンに長く暮らしました。
 そんな彼の精神分析学は、覚醒した意識の下に広大な無意識世界の存在を想定します。その動きは、地球の大地の深い場所にあるマグマの動きが地球表面の大地を動かして大陸移動をもたらす現象に似て、人間の意識や行為に大きな影響を及ぼすというのです。
 それは、人間の行為が意識における理性によって適切に制御されることを理想としてきた近代社会の規範を根底から相対化する可能性をはらんでもいたのだと思います。

 しかも彼は、人間の行為の背景に「リビドー」という名の「性的エネルギー」を仮定したり、「エロス=生の本能」に加えて「タナトス=死の本能」を想定したり、無意識の表出としての「夢」を重く見る精神分析を試みたり……結果、シュルリアリズムに代表される20世紀の文学や芸術にも大きな影響をもたらしました。

 むろん今では、20世紀における夢や精神現象を科学的に説明する学問が進展して、フロイト学説は限界や誤りを指摘されています。でも、幼児期にさかのぼって人間の心の動きを捉え直そうとした試みをはじめ、いくつもの点で今なお、その独創性が評価されるべきなのではないかと思うのです。
 こんなことを考えたことも、ウィーンでの滞在をめざした理由があるような気がしないでもありません。

 今ひとつ、ウィーンといえば思い出すべきは19世紀の「世紀末」です。そこでは20世紀の美術や音楽、文学や演劇、哲学・思想、自然科学、医学・精神分析、経済学、建築などの新しい潮流が生み出されました。

 背景には13世紀から700年近く、中欧を支配したハプスブルグ家の威信の揺らぎがありました。政治が混乱し、人々は文化の創造に力を注いだのです。しかも当時のウィーンは「ドイツ人の街」というより異文化に寛容なコスモポリタン都市でした。
 そこではドイツ語をはじめ、スラブ語・ハンガリー語・イタリア語・ボヘミア語・ポーランド語・チェコ語などが日常的に用いられたといいます。そんな多様で異質な要素の出会いと相互の刺激が、新しい文化を生み出す環境を醸成したのでしょう。

 むろん今では誰もがドイツ語を話します。が、円形に近い旧都心の環状道路沿いの景観は、今もそこに多様な要素が共存していることを物語っています。
 まず、旧都心を貫くケルントナー通りが環状道路と交わる地点にはネオ・ロマン様式の国立歌劇場(シュタット・オーパ)があります。そこから時計回りに進むと、ロマネスク様式の美術史美術館と自然史博物館、民主制を生んだ古代ギリシャ神殿風の国会議事堂、中世市民の自治を象徴するゴシック建築の市庁舎、ルネサンス様式のウィーン大学などが並んでいるのです。これらはすべて「世紀末ウィーン」の遺産なのです。

 もっとも、こうした過去の様式の場当たり的な取り込みは「幼稚だ」と言われることもあるようです。でも、多様な要素を自由奔放に取り入れた「世紀末ウィーン」の精神の現れでもあるのだと思います。
 それは「21世紀はじめのウィーン」にも脈々と受け継がれているのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?