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映画AGANAI 感想

2021年3月21日。東京は春の嵐が吹き荒れる中、映画AGANAIを見に行ってきました。非常に衝撃を受けたので、感想などを書いてみたいと思います。

 本作は、地下鉄サリン事件の被害者である監督・さかはらと、アレフ(オウム真理教)の広報である荒木氏が、荒木氏の生い立ちから入信までの地を辿り、入信に至る経緯や現在の心境へと切り込んでいく、ロードムービースタイルのドキュメンタリー映画である。

 これは、覚悟の物語であると感じた。
 さかはら監督は、作中で、一瞬であるがハッキリと、「自分が六本木に住み、通勤に地下鉄を利用し、地下鉄サリン事件に巻き込まれた。これは、誰の所為でも無い、自分の業であると受け止めている」と述べている。(セリフが一部違っているかもしれません)自身が受けた被害を『業』として受け止めると断言するさかはら監督の内面の強さと、その心境に至るまでの葛藤を思うと、その覚悟に慄然とした。
 さかはら監督は、荒木氏に問うのである。私は貴方の信じる教団が起こした事件で、被害を受けました。まだ、その教団を信じ続ける貴方は、一宗教者として、私に何を言ってくれるんですか?と。
 その答えを探す旅が、荒木氏の幼少期から出家までを巡る旅の目的なのだろう。

「さ、行きましょか」
 さかはら監督が地下鉄・六本木の駅で待ち合わせた荒木氏を促すセリフである。微かに関西訛りが入った、柔らかな言い回しである。他愛もない会話を交わしながら歩き出す二人は、予備知識が無いと、友人同士かと思える。さかはら監督と、荒木氏の雰囲気は、客観的に見て非常に自然である。驚かされるのは、アレフの施設に入って説明を受けるさかはら監督の態度のフラットさである。そして、恐らくさかはら監督自身、アレフの教義にかなりの知識があると推測される。どうしてこんな事件が起きたのか、オウム真理教(アレフ)とは何だったのかを知りたいのは、さかはら監督自身なのだろうと思う。
時折軽口を叩きながら、荒木氏の説明を受けるさかはら監督は、一見非常に穏やかである。

荒木氏の出家の理由は、非常にぼんやりしていると言うのが実感である。勿論、物質への執着が消えていった幼少期の感覚や、弟の重大な病気(それは、医師の示した一可能性であり、現実ではなかった)が引き起こした、家族との認識の乖離等があるが、入信の理由と言うのには違和感を覚える。荒木氏から思い出されるのは、林郁夫の『オウムと私』を読んだ時に感じた、強烈な違和感である。林郁夫も、真理の追究や、家族への強い愛情(これは荒木氏にも共通する。荒木氏は、可愛がってくれた祖母の家の、最寄り駅に電車が停止するだけで、幼少期を思い出して号泣していた)がありながら、出家と言う形で家族を犠牲にしている。
 さかはら監督はその矛盾を突く。家族への愛と信仰とはそんなに相いれないものなのか。両立する道は無かったのか。何故入信したのが、空海の真言密教では無くてオウム真理教ではなくてはいけなかったのか。
 荒木氏は、それに応える。『私はこれに賭けたんです』さかはら監督と、母校である京大の野球部の練習を見ている時の、軽口の応酬の際に出た、荒木氏の本音である。勧誘はしないんですか?というさかはら監督の問いに、「君も賭けてみないか、とでも言うんですか?」というやり取りから荒木氏が発した一言である。荒木氏もさかはら監督も、余りに真剣になり過ぎて冗談に紛らわせたが、正に本音を掘り当てた瞬間だったと思う。

さかはら監督は、その後、自身の両親に会わせたり、離婚した元妻の話を荒木氏に聞かせる。そこで再度、アレフの信者として、そして友人として、自分に何を言うのか、と荒木氏に迫るのだ。
正直、観ていて『荒木氏に謝罪を迫るのはどうかな……』と思わなくもない部分であった。今、この感想を書くに当たり、さかはら監督のインタビューを漁っていた所、『映画としては、彼が改心するという「ラスト」にしたかった。よく冗談で言ってましたよ。「荒木さんがアレフをやめてくれたら素晴らしい映画になるよ。オレは命をかけて撮影しているんだから、映画のためにやめてくれないか」って。無視されましたけど(笑)。』(地下鉄サリン事件、同じ京大出身の二人を分けたものは? 被害者の監督があばく「加害者」の真実(弁護士ドットコムニュース) - Yahoo!ニュース)と言う一文を見つけてしまい、今まで、さかはら監督に抱いていた勝手なイメージが崩壊しそうになった。(必ずしも監督が本音を言っているとは限らないが)
最初から荒木氏を責めようとか、責任を負わせようと言う雰囲気が見えなかったさかはら監督が、後半、荒木氏に圧力をかけていく理由が分からなかったが、この一文で納得した。(また、離婚の件や両親と荒木氏の面会、さかはら監督の父親が怒りの感情を表した事で、さかはら監督自身のやり場のない怒りが噴出したとも思える)
荒木氏は、棄教することは無いが、非常に葛藤しているし、さかはら監督の問いに正面から答えようと言葉を選んでいる姿は、誠実である。緊張感があるやり取りが続くが、両者の誠実さと、互いに対する情が根底に見えるので、被害者が加害者を一方的に糾弾するような不快感は無い。
旅の終わり、『今日は実家に帰って下さい。実家のお布団で寝てください』『分かりました、そうします』と言う二人の会話は、正に友人同士のようなやり取りである。振り返る荒木氏と、手を振るさかはら監督が切ない。アレフでも監督でもなく、人間同士となった瞬間の様に私には思えた。

「さ、行きましょか」

 最後、荒木氏とさかはら監督が、霞が関駅での献花と囲み取材を終え、タクシーに乗り込む。『謝罪は無かったね。謝らないの』とさかはら監督は荒木氏に問う。『お疲れ様』でも、『取材陣多かったね』でもなく、問いかけで終わる。二人の贖いの旅は、この言葉と共に、ずっと続いて行くのだろう。
 さかはら監督と荒木氏は、2016年以降会っていないそうである。しかし、二人はニーチェの『星の友情』とも言うべき友情を持ち続けている事を、勝手ながら祈っている。

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