隣人の話 一番近く。

一番近くに居てくれた隣人の話をしたい。
誰も聞いてないとは知っているのだけれど。

隣『人』とは言ったが、猫の話だ。
不言色いわぬいろの黄色い瞳と、先端の折れた鍵尻尾。
黒い毛並みの女の子。

姉妹の二人でやって来たのだが、4年ほど前に妹は亡くなった。
つまり黒猫である彼女はお姉さんだ。
僕が5歳だったか、母親と二人で暮らしていたころ。
とにかく小さいころからの長い付き合いだ。
その割に、何を言おうとしてるのか瞳からは読み取れないが。

近づいてきたり、こっちが呼ぶと一言だけ鳴く。
そばに来て、瞳孔を細めて、目を合わせてくる。
その目からは、どんな感情を持っているのか読み取れない。
妹を見殺しにした僕を、恨んでいるのか、親近感を覚えているのか。

何も言わずにずっとそばにいる。
背中をこちらの足にぴったりとくっつけて、座っている。
頭をなでると喉を鳴らしながら嬉しそうにするくせに、
少しずつ離れていく。
毛並みが好きなんだけれどな。
もふもふじゃなくてさらさら。
吸うと太陽のにおいがする。
日向ぼっこが好きだから。
吸うとのそっと逃げていくし、撫でても離れてく。

その割にはずっと近くに居る。黙ったままで。
たまに動き出して、頭突きをゆっくりとかましてくる。
頭をこすりつけるみたいに。
撫でると喜ぶ。でも離れてく。

だから、好きなように本を読んだりゲームをしている。
勉強をしていた時もあった。
手慰みで折れた尻尾を少し撫でる。
あまり撫ですぎると、尻尾が僕の手を窘める。
小さいころから、その小さな背中のぬくもりと流れが
当たり前になっていた。

ずっとそばに居た。

あまり小さい時から人が得意ではなかった。
ネットでも誰とも繋がれない。
ただ、勇気と会話力と人としての面白さを備えていない。
友達も自分といて楽しませられてるか不安だった。
会話が下手だ。コミュニケーションが下手だ。
こんなにもみんなに救われてるのに。
それを当たり前に出来る人たちに囲まれて、自分が人間だなんて思えない。

猫だったら、言葉が通じないから、こっちの言葉が勝手に想像するだけだ。
伝わってくる心配も無い。伝わってしまう心配も無い。
隠さなくてもいいし、読み取る必要だってない。
それが何より楽で、疲れなくて。
お互いが気が向くから、一緒にいるだけだった。
誰にもできない救い方だった。

今年の3月頭、桜が咲く前、春が来る前の話。
彼女が死んだ。
すぐに、待ってもいない春が来た。

ただの老衰。一週間くらい前から水しか飲まなくなった。
普通の死に方だ。別に病気でもない。
悲しむ必要だってない。

可能な限り食べやすいご飯を作ったが、食べる気力も起きないみたい。
ただ、死ぬ前に落ち着く場所を探すみたいに、家の中を歩いては、
休んでを繰り返している。

最後の日。起きてきて。
彼女が選んだのはお気に入りのクッションの中。
目を閉じて、呼吸をしているだけ。
毛並みをなで続けても逃げない。
嫌がっていなさそうだ。
家族は全員仕事と学校だったから僕だけ。
後は他の子たち、猫たち。

毛並みを撫でているうちにいつの間にか寝ていた。
真っ暗闇のなか、いつもみたいな背中のぬくもりの感触がする。
それが足をなでていく。
飛び起きると、息を引き取る寸前だった。

呼吸が少しずつ小さくなって、消えた。
やわらかかった体は硬くなっていく。
さらさらの毛並みは変わらないのに。

火葬の手配とかの準備をしていたら、バイトに遅れていた。

バイトを終えて、帰って。何とか眠る。

起きて、彼女を見る。
毛の手触りは変わらない。
硬さが消えて、もう肉はやわらかくなっていた。

火葬場へ連れていく。
少ししたら、骨になって帰って来た。
肉食獣の形だ。全然知らない姿。
見覚えがあるのは折れた尻尾だけ。
撫でていたものの中身。

全てを骨壺に、移す。
移し終えて葬儀は終わった。それだけ。

ギリギリで保っていた何かが、音もたてずに崩れていった。
もう壊れていたのかもしれないけれど。
その前からずっと。足りないものだらけなのには気づいていた。

昼が嫌いだった、夜はもっと嫌いだった。
そのくせに、大嫌いな夜を起きていた。
朝を知らなくなることが怖かったから。

眠気覚ましの錠剤を飲む、効かない。
それでも眠たい頭で自分を責め続ける。
溜まっていた作業は今日も進まない。
朝日を見ると安心する。
やらなきゃいけないことも、全部どうでもよくなる。
罪悪感もどうでもよくなって、自己否定が心地よくなる。
そのまま、薄れた吐き気にまかせて眠りにつく。

一日が過ぎることを怯えれば怯えるほど、
恐ろしいくらい日々は早く過ぎていった。
微睡みの中にそれは溶けていく。
水の中に入れた粉末のように。
『変わらないね』なんて言葉が、
いつから凶器になったのかも思い出せない。
ずっと前からだ。
それを肯定も否定もしないでくれた彼女はいなくなった。

休学をしていた。
何かが変わると思った。
変えられると思った。
変えるための努力ができると思った。
でも、何も変わらなかった。
吐き気と、自己否定、嫌悪は相変わらず脳髄にこびりついてる。
歪んだ笑い方が、一人でいるときの癖になっている。
人の前でも笑えてる?なんの価値も無い癖に笑顔すら無くなったら?
ずっと思っていたこと。
それを気にしない彼女はいなくなった。

いつの間にか、夏が来ていた。

ある日、母親から言われる。
『父親から東京で働かない?って連絡が来た』
なんて。
今まで、連絡も無かった。どんな人なのかもわからない。
姿かたち、声、性格も。何も知らない。

怖い。

でも、理解してしまった。
多分この吐き気は変わらないと消えないのだと思った。
これは最後の機会なのだと。
選択肢を潰したらきっと、次は無い。

これを運命的というやつにしなければならない。
素敵なストーリーも、主人公がゴミなら駄作だ。
少なくとも僕がそれを証明している。
別に、主人公だとカッコつけたいわけじゃないけど。
今まで生きてきて、考えたこと、得たことを無駄だったって死ぬときに
思いたくない。
ずっと気付いていたそれにまた気付く。
何回目かもわからないけれど。
なけなしの勇気を全て賭けた。

ありふれた備忘録。前日譚にもなりはしない。
でもちゃんと、日々を溶かさないように今から生きないといけないと思う。
ずっと知ってたけど。
多分、これが最後のチャンスなのだから。




それはそれとして、今日も寂しい。

このアイコンの、彼女の話。僕の隣人の話。

10/23

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