祖母の命日(2022/08/05)

今年もまた母方の祖母の命日がやってきた。
祖母が亡くなった時は今よりも暑くなかった気がする。
祖母が亡くなったのは私が高校1年生の時だ。
お通夜やお葬式のために来ていた半袖のセーラー服がスースーしていたのを覚えている。

私は自分の中で祖母の命日をものすごく大切にしていて、忘れることなんて決してない。
いつだったか、8月4日に何かの打ち上げが京都であって、帰ろうとすると引き留められて、酔っ払っていながらも「明日祖母の命日なんで!」と言って無理やり帰った思い出がある。あれは何の打ち上げだったんだろう。

毎年祖母の命日には花を送っている。
私が心を殺しながらも企業で働いていた時は、会社の近くの花屋さんでブーケをつくってもらった。
今年は花を買いに行く時間がなかったので、近くのライフに行くと、仏花コーナーがあり、そこでほおずきを買った。
一緒に祖母が大好きだった桃も。
入院中亡くなる前にわがままなんてひとつも言わない祖母が「桃が食べたい」って言っていたのをいまだにずっと覚えている。
あの時はちゃんと食べてもらったっけな。それは忘れてしまった。
なんせ、祖母が亡くなってもう20年が経つ。
祖母がいない人生のほうが長くなってしまった。

それでも、祖母のことを決して忘れないのは、兄と私を平等に愛してくれたからだろう。

Twitterでも触れたが、兄は父方の会社の3代目として生まれて、何不自由のない、自分のやりたいことができる人生を送ってきた。
一方私はというと、私がやりたくないことでもやらせて、やりたいこともやらせてもらえない人生だった。子役もやったし、ピアノもやった。でもどちらもやりたくなかった。子役は今でこそ話のネタになるから良いとして、ピアノの時間は苦痛だった。練習はせずに即興でピアノを弾いていた。(でも褒められていた)
中学受験の時に、兄だけ大学までエスカレーターの学校に通うことを許され、私は女子校しか受験できなかった。私も兄の行っている学校に行きたかった。(結果的に同じ大学になるのだが)

私は父方の祖父母からは嫌われていた。昔から嫌いなことを嫌いというタイプで、父方の祖父母を嫌っていたのが伝わっていたのだろう。
幼少期から「兄は勉強も運動もできるのに、お前は何もできない」と言われてきた。中学生になって胸が大きくなりだした頃に、「胸ばっかり大きくなりよって」と言われた。
そういう祖父母だったから、今思っても、嫌いだなと思う。

でも祖母はそんな兄妹を優しい目で見つめてくれていた。
怒る時は怒る、褒める時は褒める。
そんな当たり前のことをしてくれるのは、家族の中で祖母だけだった。

だから私は命日に線香をあげに行くという当たり前のことをしている。

今年は母が命日を忘れていたようで、普段実家に寄り付かない私にびっくりしたらしく、お寿司を取ってくれた。お酒も買ってくれた。

また来年も祖母の命日には線香をあげに行くだろう。
多分、私が死ぬまでずっと。

もう会えなくても、大好きなおばあちゃん。
また会いたいなあ。



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