時々、時事ネタ#2 映画『福田村事件』に思う

9月8日に『福田村事件』(森達也監督)を観てきた。福田村事件とは、1923年9月6日、千葉県の福田村の自警団が、讃岐から上京してきた行商人の一行を無惨にも殺戮した事件である。事件の背景には関東大震災に伴う社会混乱があった。9月1日に発生した関東大震災によって人々は瞬く間にパニックに陥った。この社会混乱に乗じて日頃から痛めつけている朝鮮人が、仕返しをしてくるのではないかという日本人の不安心理が、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などというデマを呼び、当初は政府も新聞もそのデマに加担した。以降、各地で元軍人、民間人が一緒になって自警団を結成し、道行く人を「お前は朝鮮人か」と誰何し、少しでも怪しければ殺害するという狂気が至るところで発生した。関東大震災における朝鮮人虐殺の犠牲者は6千人以上だと言われている。福田村事件は、讃岐出身の行商人の身なりや聞き慣れない方言が自警団の疑念の対象となり、まだ乳飲み子の赤子まで容赦なく殺戮されたなんとも痛ましい事件である。映画の終盤、讃岐の行商人を取り囲んだ武器をもった自警団と、なんとか事態を穏便に収拾しようとする一部の村人とのあいだでなされる応酬のほとんどは、讃岐から来たという行商人一行が本当に日本人であるか、というものだ。「もし日本人だったらどうする、日本人が日本人を殺すことになるんだぞ」。このセリフに一瞬だけ、自警団も逡巡の色を見せる。しかし、この白熱する議論は最も大切な問いを忘れている。それは行商人の親方(永山瑛太)の次の一言だ。「朝鮮人だったら、殺してもいいのか?」。おそらく、この映画を観た者で最も脳裏に刻まれているのはこのシーンだろう。

はたして、100年前のこの悲劇は過去の話だろうか。むしろ、デマに踊らされて、安易に敵を作りだし、その殲滅に躍起になる心理現象は、現代社会と地続きであるように思われる。主演の井浦新は、インタビューで「物語を見て『今もある話だ』と感じた人がいたとすれば、それだけでも撮った意味がある」と述べているが(1)、この映画は、まさに現代的な問いを我々に突きつけているのだ。この映画で描かれる人々の狂気と現代を生きる我々とは決して無縁ではない。現在の日本と韓国の関係は、かつての植民地時代の主従関係ではなく、言うまでもなく対等な関係である。圧倒的だった経済格差も徐々に縮まり、それどころか、一人あたりのGDP(2018年)では韓国に逆転されている。これについてイスラーム法学者の中田考は次のように述べている。

古代から世界帝国を成立させ、特に東アジアにおいては変わらぬ覇者であった中国に日本が抜かれるのは理解できます。しかし、かつての植民地で独立後も冷戦の被害者となって現在まで続く内戦(朝鮮戦争)に苦しむ韓国に、朝鮮特需で経済発展を成し遂げた日本が追い付かれるというのは何かおかしい気がします。私には「差別」意識はない、と言いましたが、私のこの優越意識とヘイトスピーチの「嫌韓」はおそらく陸続きでつながった同じ「差別」なのでしょう。

中田考「隣国を見る視点」『街場の日韓論』晶文社、120頁

中田がここで問題にしているのは、普通の日本人に潜む隠れた差別意識である。ファナティックな暴力性に一気に引火する、無意識に抑制しているレイシズムは誰にでもある。実際、福田村事件で讃岐の行商人を殺戮した自警団の人々は、そのおぞましい狂気からは想像できないくらいに日常では平凡な人々だ。冗談が好きで、今日の飯を楽しみにし、家族を愛する、そんな名も無き普通の人々だ。そうした人々が、相手が朝鮮人だと見るや、狂気に駆られ易々と殺戮を行ってしまう。このことの意味を我々は考える必要があるだろう。今を生きる我々一人ひとりが、自分の内なるレイシズムを見つめ、人間としての弱さに向き合うこと。それこそが社会の混乱期に悲劇を生み出さないための大きな強みとなるのではないだろうか。

(注)
1 映画「福田村事件」主演・井浦新 差別が生む暴力「現代と変わらない」 役を生き、気持ちで動いた:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)


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