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大学受験のための映画講義#2

こんにちは。與那覇開です。
大学受験のための映画講義、第2回目です。
今回は、韓国映画『幼い依頼人』(2019年、韓国公開年)を紹介しながら、入試現代文の頻出テーマである「他者」について考えてみたいと思います。『幼い依頼人』は、2013年に韓国で起こった漆谷継母児童虐待死亡事件という実在の事件に基づいています。主演は、イ・ドンフィ。韓国映画歴代興行収入第二位の『エクストリーム・ジョブ』(2019)で、ちょっと間抜けな刑事役として出演していた俳優です。今回もひょうきんなキャラながらも、悪と戦おうとする誠実な青年役を好演しています。

『幼い依頼人』あらすじ

映画冒頭、仲睦まじい二人の姉弟が登場します。しかし、この二人の様子がどうもおかしい。箸の持ち方も知らないし、ハンバーガーの食べ方も知らない。弟(7歳)は学校にすら通っていません。弟は姉(10歳)が下校する頃に、ひょいと現れて一緒に家に帰ります。二人には父親がいるのですが、食事や洗濯は姉がひとりで全部やらなければなりません。そう、二人は父親にネグレクトされているのです。二人は幼い頃、母親を亡くしました。姉はかろうじて母親の顔を覚えているが、はっきりとは思い出せません。弟はいつも姉に「ママはどんな顔だった?」と聞きます。ママの話をしているときの姉と弟はとても楽しそうで幸せに見えます。映画の中ではっきりと描かれているわけではありませんが、おそらく母親を亡くしたことが、父親を無気力にさせ、子どもたちの育児放棄へと至ったのでしょう。家にあるアルバムには母親が写っている写真は全部、顔のところが切り取られているのですが、これも不幸な思い出をなかったことにしようという父親の心理防衛的な行動だと思います。そんな中、父親は再婚することになります。母親的なものの存在に憧れていた姉と弟は新しいママの存在に喜びます。しかし、この新しいママ(ユソン)はとんでもない虐待女でした。些細なことでもすぐに腹を立て、子ども相手に手加減もせず殴り飛ばします。姉のダビンと、弟のミンジュンは毎日、新しいママの暴力に脅えて暮らしますが、家庭内での暴力は外側からは見えません。

ジョンヨプ(イ・ドンフィ)はロースクール出身のインテリですが、韓国の若者らしく20代後半になっても就職活動中です。夢は一流法律事務所に就職し、ソウルで華やかな勝ち組生活を送ることです。とはいえ、就活に連戦連敗したことから、地元の児童福祉館に勤めることになります。そんなとき、ダビンに会います。母親から暴行を受け警察に駆け込んだダビンを児童福祉館の職員であるジョンヨプが引き取りにきたのです。ジョンヨプはここで、児童虐待の疑いがあっても警察は児童福祉課に丸投げするだけであること、当の虐待母親に対しても事情を聴くぐらいしかできないことという社会の現実に直面することになります。母親のもとに返されたダビンは、また母親の暴力を受けます。この暴行場面は見ていて本当に胸が痛くなるのですが、姉のダビン役を演じたチェ・ミョンビンは本当に素晴らしい演技だったと思います。余談ですが、韓国の子役の演技は本当に舌を巻きます。『グエムル』のコ・アソンや、『アジョシ』、『私の少女』のキム・セロン、『新感染』のキム・スアンなど、天才的な才能をもつ子役が溢れています。さて、話を戻しますと、ジョンヨプの「君のしたことは間違っていない」という言葉に感動した姉ダビンは、弟ミンジュンを連れて、毎日ジョンヨプのいる児童福祉館へ通うようになります。姉と弟にとって唯一の拠り所がジョンヨプだったのです。姉弟と一緒に散歩に行ったり、ハンバーガーを食べたりするジョンヨプでしたが、本当はもうこの仕事にうんざりしていました。ソウルでの華やかな夢を諦めていなかったのです。

児童福祉館に勤務しながらも、地道に就活を続けていたジョンヨプはついにソウルにある一流法律事務所に就職を決めます。入社社員に車をプレゼントするようなリッチな事務所です。ジョンヨプはもう鼻高々で、ソウルで始まる華やかな新生活に胸を躍らせながら、ソウル行きの準備を始めます。ちょうどその頃、ダビンが母親の暴行による体調不良で病院に搬送されました。事情を知ったジョンヨプはすぐにダビンに会いに行きます。度重なる暴力を受け、弱弱しくなったダビンはジョンヨプに「私と弟をどこかに連れていって」とお願いします。しかし、ジョンヨプは、ダビンに同情しつつも、ソウルでの新生活を優先し、ダビンに「もう会えない」と言って別れました。ダビンが退院してからも母親の暴力は止むことはありませんでした。ある日、就寝時間を過ぎても起きていたミンジュンに腹を立てた母親が、わずか7歳のミンジュンに対して殴る蹴るの暴行を繰り返し、あろうことか殺してしまいます。この母親はもともと前科歴がある人でした。刑務所送りになることを怖れた母親は、なんと姉のダビンを弟殺害の犯人に仕立て上げるのです。母に恐怖支配されているダビンは、自らが弟殺しの犯人であるという嘘の自白をすることを受け入れてしまいます。ソウルにいたジョンヨプは全国ニュースになったこの事件を見て、すぐにダビンのもとへ戻り、虐待母親からダビンを救うことを決意するのです。

入試現代文の「他者」

この映画は「他者」について深く考えさせられる作品です。大学入試現代文では、他者を扱ったテーマが少なくありません。では、この他者とは一体、何なのでしょうか。議論のとっかかりとして、次の文を読んでみてください。2013年、関西学院大からの出題文の一部です。

私は自分が頭部に痛みを感じて「私は頭が痛い」と発言する時、別にその特徴的な感覚を名指し、相手に向かって描写しているわけではない。私は相手に向かってその頭痛の解消を求める実践的要求を行っているのであり、相手がそれに応じた実践的態度をとってくれることを望んでいるのである(野家啓一「「対話的相互性」の地平」『哲学の迷路』産業図書)

この場合、他者とは、言葉のことだと言っていいでしょう。私たち人間が意思の疎通を図る上で、言葉はとても大切な道具です。自分の意図・快楽・欲望を言語化し、それを相手に伝えることで私たちは人間同士の関係性を構築していきます。引用した箇所にもあるように、「頭が痛い」という訴えに対して、「大丈夫? 救急車呼ぼうか」と実践的な応答があることで、関係性が構築されるというわけですね。とはいえ、言葉の倫理的要請が常に人を動かすとは限りません。実際、当初、ジョンヨプは、ダビンの「どこかへ連れて行ってほしい」と窮状を訴える言葉よりも、ソウル暮らしという自らの人生の成功の方を選びました。私たちの周りを見ても、新聞やニュースがありとあらゆる社会問題を言葉で訴えているのに、それに対して切迫感をもって行動することは稀でしょう。言葉よりも、もっと人間の倫理に迫ってくる回路はないのでしょうか。この問題を考えるにあたって、フランスの思想家エマニュエル・レヴィナスが参考になります。まず、次の文を読んでみてください。2015年早稲田大学法学部からの出題文の一部です。

他者の顔は、〈私〉が望むか否かにかかわらず、それ以前にスピーチアクト(言語行為・発話行為)の力をもって〈私〉に自らを強要してくる。顔の歓待は、〈私〉の選択の自由に関わりなく、受動的な感受性―「受動性より受動的な受動性」―、つまり可傷性において起こり始めている。(港道隆『レヴィナスー法‐外な思想』講談社)

引用した後半部分は何が何やら分かりませんが、前半部分の他者の顔が我々に何かしら言動を要請してくるというのはその言わんとするところが分かると思います。たとえば、駅前で苦痛の表情を浮かべながら座り込んでいる人を見たとします。その人を前にして私たちは素通りできるでしょうか。少なくとも声を掛けたり、駅員さんに連絡したりするのではないでしょうか。他者の苦痛の表情が私たちに具体的な行動を取らせるのです。こう考えると、先ほどの「私は頭が痛い」の例にしても、私がそれに対して実践的な倫理行動を取るのは、その言葉に促されてというよりも顔が歪んで苦しそうにしている表情によって具体的な行動を強いられると言ったほうがよいでしょう。もし笑顔で「頭が痛い」と言う人がいたら、ふざけてるとしか思えないですよね。そういう意味で、レヴィナスの「倫理は顔だ」というのは、非常に深いところをついていると思います。さらに、レヴィナスは他者の顔は私よりも優位にあると言っています。次の文章を読んでみてください。2017年早稲田大学法学部からの出題文の一部です。

ところが、E・レヴィナスはもっと踏みこみ、私と他者は対等ではないと語っています。私が他者と向き合い、他者の顔を見つめるとき、あるいは他者のまなざしに見つめられるとき、他者が私にではなく、私が他者に対して責任ある者となるのです。(後藤嘉也「人間の社会性」『基礎講座 哲学』ちくま学芸文庫)

苦悶の表情を浮かべる他者を前にして、私たちは素通りできません。何かしら責任ある行動を取るように強いられます。やむを得ない事情で素通りするにしても、後にその罪悪感に悩まされることになるでしょう。なぜなら、他者のまなざしに見つめられた私は何かしら行動を取る責任が課せられているからです。この点において、私と他者は非対称なのです。自我よりも他者の顔が先行するとレヴィナスは言います。ジョンヨプは、ダビンが弟殺害の容疑で警察に連行される場面を見て、なんとかしてダビンを助けたいと思うようになります。ダビンは母親から毎日毎日殴られ続けているのに、周りの大人は誰も助けてくれません。人生に絶望した悲愴なダビンの表情をジョンヨプは無視することができませんでした。ダビンの顔がジョンヨプに倫理的行動を取るように促すのです。ジョンヨプはこれまで、誰もが羨むような職に就き、高級マンションに住み、都会生活を満喫することを夢見ていました。いわば、ジョンヨプが追いかけていたものは、「他者の欲望の欲望」(ジャック・ラカン)というもので、みんなが欲しいものが自分も欲しいというものでした。ジョンヨプは、抽象的な価値観を追いかけています。しかし、ダビンの苦境を知ることで、ジョンヨプのこの抽象的な価値観は少しずつ揺らいでいきます。ダビンを助けたいと言うジョンヨプに対し、法律事務所の社長は「他人の事情なぞどうでもいい。運の悪い子どもはどこにでもいる。そんなことより、価値のある仕事をしろ」と言います。この言葉を受け、ジョンヨプは、自分の居場所はここではないと判断します。ずっと憧れていた職場もソウル暮らしも全て捨て去り、ダビンのもとに戻る決意をしました。ジョンヨプは、抽象的な価値観よりも、ダビンというたったひとりの少女のために生きることを決意したのです。そうすることが、ジョンヨプがダビンに対して取る責任の在り方だったのです。あと、ついでながら私見を交えさせてもらうと、私は、他者の顔よりも声の方がもっと根源的な倫理を要請するのではないかと思います。というのも、他者の顔が倫理を要請するとした場合、どうしてもその距離が問題になってくるからです。顔の倫理要請は、その直接性に支えられています。苦悶の表情が見えなくては、相手に切迫感のある行動を取らせることはできません。ジョンヨプも警察署に連行されたダビンになかなか会えないでいましたが、それでもジョンヨプがダビンのために尽力したのは、ダビンの窮状を訴える声を聞いたからではないかと思います。たしかに、ジョンヨプは、かつてダビンの「どこかに連れていってほしい」という言葉を聞きました。とはいえ、そのときは単に言葉を聞いたのであって、声として取り込まれていなかったのだと思います。しかし、声の肉感性は、それを聞いた相手の身体に根付きます。ジョンヨプの行動を支えていたのは、ダビンの声だったのではないでしょうか。ジョンヨプの脳内には、ダビンの声が何度もリフレインしたはずです。個人的にも、相手の表情は脳内でなかなか再生できませんが、声なら再生しやすいように思います。顔よりも声の方により深い倫理がある、と私は思います。

誰かのために生きること

それはともかく、顔にしろ、声にしろ、他者の窮状を訴える身体からの発信が、私たちに具体的な倫理行動を取らせます。そういう意味で、レヴィナスは私と他者のあいだに非対称の関係を見ていました。とはいっても、それは私が他者に従属するということではありません。むしろ、他者を支え、支えられることの関係性のなかに生きることです。出世、名誉、都会暮らしといったジョンヨプがかつて追いかけていた抽象的価値観には「他者」がいませんでした。ジョンヨプは、こうした抽象的な価値観を泣く泣く諦めたわけでも、ダビンのために犠牲にしたのでもありません。ダビンという他者との関係性の中に生きることに自らの生を意味づけ直したのです。映画の終盤、母親の暴行の容疑をめぐる裁判で、ダビンは証言台に立ちます。しかし、大人社会に裏切られ続け、また母親から暴行を受けるのではないかと怯えるダビンは何も話すことはできません。しかし、ジョンヨプから、弟ミンジュンが大事にしていたぬいぐるみ(これはジョンヨプがミンジュンにあげたものでした)を渡されると、勇気を振り絞って母親からの暴力があったことを証言します。このときのダビンもまた、決して自分のためだけに証言したのではなかったでしょう。ダビンが勇気をもって証言できたのは、すでに亡くなってしまったミンジュンのため、そして何よりそばにいるジョンヨプのためだったのではないでしょうか。ダビンもまた、二人の他者に対して責任を果たしたのでした。誰かのために生きること、そのことの尊さを教えられる作品でした。

韓国映画は、『アシュラ』、『チェイサー』、『新しき世界』などのノワール映画が国際的にも評判が高いですが、本作のような社会派映画にも名作が多いです。小学生レイプ事件を扱った『ソウォン』、中学生集団レイプ事件を扱った『ハン・ゴジュ』、聴覚障害学校での児童虐待を扱った『トガニ』などは、いずれも実在の事件に基づいたものです。『トガニ』に関しては、映画の反響で、性的虐待の厳罰化(通称トガニ法)が制定されるなど、実社会を動かしたという点で特筆すべき映画です。実在の事件をモチーフにする社会派映画は、韓国映画のなかでもひとつの大きな軸をつくっています。最後に、漆谷継母児童虐待死亡事件で亡くなられた児童にご冥福をお祈りしたいと思います。(おわり)

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