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北海道を縄文文化でめぐる大人の修学旅行

訪れた遺跡と博物館

〇小樽:手宮洞窟、地鎮山環状列石、忍路環状列石〇余市:西崎山環状列石、フゴッペ洞窟
〇函館:大船遺跡、垣ノ島遺跡 
〇青森:山内丸山遺跡 
〇洞爺:入江高砂貝塚
〇伊達:北黄金貝塚
〇千歳:キウス周堤墓群
小樽総合博物館、縄文時遊館、函館市縄文文化交流センター、富良野市博物館、釧路博物館、新ひだか町博物館、苫小牧市美術博物館、北海道埋蔵文化センター、千歳埋蔵文化財センター、だて歴史文化ミュージアム

北海道の縄文文化について

土器中心の文化

全体的に北海道の遺跡には土偶が少なく、土器中心の遺物が多い。それでも土面や足形、動物型土製品、サザエ型土製品など様々な形の土製品が出土している。

また石棒に関して言えば、本州に多く見られるただの棒状ではなく、細かかい細工が彫られているものが多く、祭式に使用されたことが容易に想像できる。

土器は大きく3つに分類することができ、函館や三内丸山などの東北色の強い土器、円筒土器などが多い。釧路などは草創期、早期から底が平らで(本州の草創期、早期は尖底)、文様も北海道色の強い土器が特徴。間に挟まれた石狩低地帯(石狩から札幌、千歳、苫小牧にかけて)はその間にあるからに、それぞれの東北と北海道の特徴を混ぜた土器が特徴となっている。

早期、前期を代表する尖底土器(青森)
円筒式土器(三内丸山遺跡)
早期から平底で北海道色の濃い土器(釧路博物館)

定住を中心にした生活、生活規模の巨大化

東北、北海道の縄文人は縄文前期から定住して暮らている。しかしその暮らし方、集団形成の仕方は時代ごとに変化しており、初めの定住期は集落の中に居住地もお墓も祭儀場も貝塚もつくる小規模のものだった。それが規模が大きくなるにつれてそれぞれのエリアを分けるようになる。そのため環状列石や貝塚などがバラバラな場所につくられていく。さらに晩期になると寒冷化とともに集落が分裂し、周堤墓や貝塚を様々な集落で共同で作ったり、共有したりするようになっていく。

続縄文期から擦文文化への流れ

北海道は寒冷さから弥生文化とされる稲作が行われることがなかった。そのため弥生文化の代わりに続縄文期が始まり、9世紀ごろには擦文文化その続縄文と擦文のころ北方からオホーツク文化が流入し、合流する。そして世紀ごろにはアイヌ文化が成立していく。
なお文化移行はスペクトラムになっており、ここから続縄文、ここから擦文とくっきり分かれているわけではない。ただ縄文の継続として続縄文があり、本州の土師器文化の影響を受け擦文文化が成立していく。さらに縄文人が擦文人、オホーツク人の流れがどのような形でアイヌになっていくのかは不明であり、東北の蝦夷との関係も定かではない。

印象的だったもの こと

コクゾウムシの練りこまれた土器

石狩低地帯でコクゾウムシが500匹練りこまれた土器が出土している。そもそもコクゾウムシは米や栗などの穀物を食べる虫であるため、コメ文化の持たない北海道には生息していない虫であったが、まだ温暖だった前期から中期に栗の栽培が持ち込まれ、一緒についてきたものと思われる。しかし、地球が寒冷化していくにつれ栗とコクゾウムシは生息域を減少していく。あくまで推測の域でしかないが、あの温暖で栗などの食物が豊かであった象徴としてコクゾウムシが扱われ、あの頃に戻るようにと願いを込めてコクゾウムシを練りこんだのかもしれない。

周堤墓の建設

豊かであった時ではなく寒くなり、人口が減少していくときに縄文遺跡の中でも最大規模のキウス周堤墓がつくられる。それは豊かであった時よりも、厳しくなった時だからこそ集落ごとに過ごすのではなく、様々な集落が団結し、仲間意識を作ることで生存を図ろうとした縄文人が、共同作業、団結のために巨大な墓を作るという共同プロジェクトを立ち上げたのではないか。

ママチの土面

ママチから出土した土面の使用用途はわかっていない。しかし縦横18㎝程度の大きさ(お祭りのときに露店に売ってるお面とほぼ同じ)でやや小振りである。当時の縄文人が小さかったのではないかという考え方と装着して使うものではなかったという考え方と、死後に着けるもので小さくてもよかったという考え方がある。出土した状況としては墓の内部ではなく上に落ちたような形で出土していることから、シャーマンや権力者の象徴として墓標に取り付けてあったものが落ちたのではないか。

勾玉の作り方

勾玉は独特のカーブとぶら下げるための穴が開いている。これらをどう作るのか。まず素材になる石を採取したのち、大まかに砕き手ごろな大きさにする。そこから石英(黒曜石)の粉で研磨し、勾玉独特な形状につくっていく。そして穴は中空の竹などの素材に研磨粉を着け、火おこしの要領で擦り穴をあけていく、ただ一方向からだと先細りの穴になってしまうので半分まで穴をあけたら、反対の面から穴をあけていき、貫通させる。一つの勾玉を作るのに数週間から1か月ほどかかっていた。

亀岡式土器

青森県つがる市から出土した特徴的な文様を持つ亀岡式土器。この土器が津軽海峡を越えて北海道でも出土している。これは北海道でも亀岡式土器を作っていたのではなく、亀岡からはるばる北海道まで運ばれ、各地に届けられているのである。北海道をぐるりと点在し、釧路で大量に出土する。それは亀岡式土器の旅の終わりが釧路だったということなのかもしれない。

諏訪の黒曜石

長野県長和町から産出された黒曜石がはるばる旅をして、函館市まで持ち込まれている。北海道まで持ち込まれた意味はどこにあるのか。北海道にも白滝や十勝川など黒曜石の産地は多い。ただ北海道の黒曜石は諏訪の黒曜石に比べると黒が濃い。諏訪から持ち込まれる黒曜石は色が薄く、使用のためではなく、その色の珍しさから持ち込まれ重宝されたのかもしれない。

縄文の漆

縄文文化を代表するものの中に漆がある。個人的には草木染めで衣服を染めていたと思っているが、植物繊維は土に分解されてしまうため、残念ながら証拠となる遺物は出土していない。様々なミュージアムに飾られている縄文の服装というのは土偶をもとに推測したイメージでしかない。そんな中、函館の遺跡では漆塗りの衣服の一部が出土している。あんぎん編で編まれた縄文の服装にはまだまだ謎が残っている。

さらに縄文の漆でできた装飾品の中に櫛がある。紫式部などのまっすぐな木を合わせて骨格を作り、そこに土や動物の毛などで作った塗布剤を塗り、さらに漆で固めるその櫛は、女性ではなく、男性が主に使用していたのではないかとされている。

貝塚の役割

貝塚はゴミ捨て場ではなく、生き物の魂が帰っていく大切な場所だった。そこには貝の殻だけでなく、動物の骨、人間、使用済みの道具が埋葬されている。そして貝が土壌をアルカリ性に保ってくれているおかげで、骨が参加せず、現代まで遺跡として残っている。

子どもの足型

各地で1歳の子供の足型土版が出土している。この出土場所は主に女性のお墓から出てきている。正確な理由はわからないが、子供の足型とともに母親を埋葬する気持ちはわかる気がする。

角の生えた人 羽の生えた人

小樽の手宮洞窟や余市のフゴッペ洞窟には縄文人の壁画が残されている。それは角の生えたような人や羽の生えたような人が描かれている。これは彼らの神話だったのだろうか。

鹿の骨でつくられたもの

縄文人は先の勾玉や石棒のような石製品だけでなく、鹿の骨や動物の骨でも様々なものを作っている。なかでも鹿の骨で作った針は細く、小さく作られている。

キラキラした土器

富良野から出土した土器はキラキラと輝く。これは土器を作る際にヒスイを砕き練りこんでつくられた。

男性性器のついた土偶

土偶がなんなのか。人なのか、精霊なのか、男性か女性か、使用用途や目的は。それらの謎は解き明かされることなく、新しい説が浮上しては打ち消され、答えは出ない。しかし胸の膨らみや形状から女性であるのではないかという説は濃厚だ。しかし北海道には世界で唯一男性性器のついた土偶が出土している。故に他の土偶が女性であるなんて話ではなく、この子にはたまたま男性性器が備えられたのだと思う。やはり答えは霧の中にある。

その他

熊が象られた土器(苫小牧)
土偶(苫小牧)
入江式土器(洞爺)
入江式土器(洞爺)
土偶頭部(洞爺)
オホーツク文化の土器はシンプル
中空土偶(函館)
土偶(三内丸山遺跡)

まとめ

あぁーたのしかった。

そして北海道各地の学芸員さんと研究者の方、そして北海道の縄文人に感謝を込めて。


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