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映画「プロミシング・ヤング・ウーマン」:現代のスーパーヒーロー映画

この映画は、クラブで踊るメタボ男性のお腹とお尻を舐め回すように映すシーン(本当に誰得)から始まり、そしてそのクラブでの露悪的な男性同僚同士の女性に対する悪口が続く。このオープニングのシークエンスは、この映画が紛れもなくフェミニズム映画であることを高らかに宣言するとともに、そのお尻の揺れの滑稽さが本作のコメディ的側面を際立たせている、忘れられないオープニングである。

主人公の名前・カサンドラは、ギリシア神話に登場するトロイの王女の名前。未来予知の能力がありながらその言葉を誰にも信じてもらえないという境遇を持つことから、「身近な人間関係での不条理な状況に置かれ、社会から理解をしてもらえない」ことによる状態として、カサンドラ症候群という言葉も生まれている。親友ニーナのレイプとその死に憤りを覚えながら、その憤りを理解してもらえない本作の主人公・カサンドラと重なる。

本作はそのカサンドラの、巌窟王ばりの復讐譚になるが、映画「パラサイト」と重なるジェットコースター的展開と、ジャンルに縛られないストーリーの流れ(コメディ⇨ロマンス⇨スリラー?)で、そのテーマの重さに関わらず大変楽しく見ることができた。

個人的にメモしておきたいのは以下の2点。

衣装・メイクの巧みさ

この映画において、まず興味深かったのはファッション・メイクの使い方。
普段のカサンドラの、キャリーマリガンの永久不滅にロリな顔立ちに似合う洋服(パステルカラー、ギンガムチェック、花柄など)、ブリジット・バルドーをモチーフにしたというヘアセットとは、90年代のガーリーカルチャーそのもの。この過剰なガーリーさで物語全体の不穏な雰囲気を誤魔化していることが明白であることが、さらに物語の不穏な雰囲気を際立てていた。

また、カサンドラにとってのファッションは武装であり、戦いに挑む際にはTPOに添いつつどれも過剰な装いになる点は、女性の多くがうなづく感情なのではないだろうか(特に最後の装いは武装maxである)。このファッションのポップさが、マーベル作品のような色彩を与えており、後述するヒーロー映画としてのありかたを際立たせているようであった。

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この映画の衣装・メイクについては以下記事の紹介が充実しており、関心のある方はぜひ一読されると良いと思う。たとえばカサンドラの普段の豊かなヘアスタイルは多くのエクステでつくられており、これは彼女の”鎧”であることを示しているという。また夜な夜な繰り出す際のヘアメイクはそれぞれ異なるが、”リアリスティック”にすることへのこだわりなどを知ることができる。

個人を超えて大義に自らを投じる、伝統的なヒーロー像を強調する各シーンのカット

カサンドラを、個人を超えて大義に自らを投じる伝統的なヒーローとありかたと重ねる各シーンのカットも興味深い。

現在のカサンドラは自分自身の人生を失っているように思われ、普通の観点から見ても精神的にも正常ではない。友人も恋人もいなければ、仕事や趣味に打ち込むこともせず、復讐と世直しの他は全く無気力に生きている。ニーナが直面した不条理を生み出した社会の世直しと、直接または間接的な加害者への復讐に費やしている。この生き方は、個人の人生を投げ打ち、大義=正義のために生きる伝統的なスーパーヒーローの姿と重なる。

彼女のこの立場を表すように、個人カットにおいてカサンドラが聖母または天使のように表現されているシーンが散見される。たとえば壁の丸い装飾が光輪のようにつかわれていたり、二つのソファのクッションやベッドが、カサンドラの羽根のように見えるように写されている。

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過去と復讐のみに関心を抱き、自分の人生を生きていなかったカサンドラが、劇中人生の喜びを取り戻していく過程では、このヒーロー性から一旦距離をおく。この際にカサンドラの父親が「わたしたちはお前が戻ってきて嬉しい」というシーンは印象的であった。

しかし、その後カサンドラはつかみかけた人生を犠牲にし、大義、世直しのために身を捧げざるをえなくなる。”スーパーヒーロー”、または”聖母や天使”のような高次な存在となったカサンドラが行き着く先としては、あのエンディング以外にはありえなかったのではないだろうか。




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