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三浦綾子: 「信仰」と「原罪」を模索する

この2021年、私が最も作品を読んだ作家は三浦綾子だった。「氷点」に始まり、「続・氷点」、「母」、「塩狩峠」、を経て、今は「細川ガラシャ夫人」を読んでいるところだ。彼女の作品群が繰り返し映像化されていること(そしてさらに韓国など他国でも翻案されていること)がその証査であるように、彼女の作品群は会話中心の文体によるわかりやすさと、エンタメ性の高さが魅力であるが、その糖衣につつまれたテーマとメッセージが、自分にとても関係していると感じるものだったからだ。私がこれまでの人生でぼんやりと考えていたことについて、あたらしい視点での考えの材料をくれる著作たちだった。

1. 信仰について

私はクリスチャン家庭に育ったが、私自身はクリスチャンではない。教会にまつわるあらゆることには強い愛着がある。難解だが本質をついていると感じる聖書の言葉、毎週顔を合わせる歳の離れた友人たちと交わす会話、讃美歌の響き、クリスマスが近づくときの高揚感、すべてに愛着があり、これらは郷愁を掻き立てるものだ。

しかし、私はどうしてもキリスト教でいう神の存在を信じることができず、この一点によりクリスチャンにならなかった。聖書で神やイエスが口にする言葉は含蓄に富んでおり、なるほどとうなづくことが多いが、それでもそれを発している神やイエスの存在については、どうしても納得することができなかった。私と最も近い家族の信仰心は、私の人生における謎の一つであった。

三浦綾子の著作は、このもやもやとした感情に一つの仮説を与えてくれた。信仰を決めるのは、神の存在を信じるかだけではなく、提示される生き方を選ぶかどうかということも大きな要因なのかもしれないと。

聖書においてキリスト教の信者になる者の多くは、神やイエスがする業を目にしたり、現実もしくは夢で啓示を受けること、つまり”目に見える”事象によって啓発されることが多い。半信半疑だったが、その存在と力を目で見て信仰するに至るのだ。

一方、三浦綾子の作品では、キリスト教は直接的または間接的に明確に登場するが、神やイエスはいかなる形でも登場することはない。主人公は、隣人のクリスチャンのもはや人間離れしたような高潔な生き様に感化されてキリスト教に関心を抱き、そして信仰するに至る(「氷点」の陽子、「細川ガラシャ夫人」のお玉、「塩狩峠」の永野信夫)。そして、読者はその登場人物の生き様を見て、その世界に誘いかけられるのである。

2. 原罪について

原罪という概念も私の頭を悩ませたものである。子どものときに人間には原罪があると問いかけられても、それを理解することは難しかった。当時の私は罪を犯した記憶が特段ないのに、そんな私にも罪があると言われても頭を傾げるばかりであった。

しかし三浦綾子の著作(特に「氷点」を通じは)原罪に対する説明が与えられるように思われる。原罪とは、人が生まれながらに有する、人より優れている・正しいと驕る傾向と、人をゆるすことができない傾向である。傾向そ傾向それ自体を指しているという点で、罪を犯さない子どもであっても、原罪を負っているということだ。

人に優越しようとする傾向とそれがもたらす結果は、「氷点」の陽子によって体現される。優越性の追求は、アドラーいわく誰しも有する普遍的要求である。それは人は無力な存在としてこの世に生を受け、その無力な状態から脱したいと願うからだ。そして、その気持ちはしばしば”自分が人より正しい”と思う形になって現れる表出する。前述の陽子は正しさを追求することで、夏枝や周囲に対する自身の優位性を確立しようとする。私もしばしば陥ってしまう考え方であるが、このあり方は人間関係の複雑さの前では、なにも解決をもたらさない。最近読んだ記事では宇垣美里さんが「今までは正論をぶつけることで「言ってやった!」と思っていました。しかし、30歳になって、相手を言い負かして恨みだけが残ってしまっては誰も幸せにならないということに気づきました」と語っているように、「正義」と「不正義」といった二項対立が存在しない人間社会においては、この考え方は物事を解決する方向に働かないことが多い。

人をゆるすことができない傾向とそのもたらす悲劇とは、「氷点」のほぼ全員の登場人物によって体現されている。氷点の登場人物たちは人をゆるすことができず、復讐を連鎖させてしまう。人が人をゆるすことができない場合、悲劇は悲劇を再生産し、予測不可能な広がりを見せることが多い。そして、復讐した者もこれによって心の安堵を得るとは限らない。これはアスガル・ファルハーディー監督の「セールスマン」でもテーマになっている点である。「目には目を歯には歯を」の同害復讐法がはらむ危険がこれだと考える。

(私は人をゆるすことが全く得意ではなく、いつまでも恨み続けてしまう人間である。過去自分にセクハラしてきた人々に対しては、みな来世でカマキリになってメスに食われれば良いと呪い続けている。上記の理論的重要性はわかるが、自分の実践にまでは落とし込めていない点は自戒を込めて記載しておきたい)

以上を考えると、これまで呪文のように唱えていた主の祈りの一節「われらが人をゆるす如く、われらの罪をゆるしたまえ」の含意が立ち現れてくる。自分が正しくなく罪を犯す存在であること、人をゆるす必要があることの二つを明確に認識することが、より(過去の自分自信と比して)正しく生きる上で重要だということは間違いない。クリスチャンには当面なるつもりはないが、この二つはそれと関わりなく考えつづけたいと思う。






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