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高層湿原

 登山道は整備されているが、登山者が多いわけではない。
 山頂の少し手前に避難小屋があって、そこに泊まることもできるが、山小屋やテント場があるわけではない。人気のない山だった。アプローチには山の奥まで車に入らなければならず、そこまでの道も険しい上に自家用車が禁止されている。一日に数本のバス、その終点から3時間は歩く。そう簡単に行ける場所ではない。
 しかし、山道はそんなにきついものではなく、普通の足で3時間も登れば頂上である。
 頂上には沼があった。頂上は高層湿原になっている。
 葦や蒲のような水棲の植物が茂り、水はとうとうと湛えられている。蜻蛉や蝶のような羽を持つ虫が、水面近くを飛んでいる。澄んだ水の中には水草があって、花を付けているのが見える。小指よりも小さい魚が泳いでいるのも見える。水面は波一つ立たず、空の色を曖昧に写している。
 沼は直径十メートルほどで、その周りの湿地帯を含めると二十メートルほどになるのか。この沼や湿地帯に足を踏み入れることは禁止されている。自然保護の観点というのもあるが、危険だからだ。
 池の深さは浅いように見えるが、その底は泥が堆積していて、実際の深さは何メートルもある。どれだけ深いかは正確には計測されていない。
 しかし、いったん泥に足を取られると、抜け出すことができず、もがくほどに足が泥に捉われていく。気が付けば身体は沈み、顔まで池の中に沈んでいく。そうやって溺死した人間は何人もいたという。また、死体すら見付からないまま、沼の底に沈んだまま行方不明となった人間はそれ以上に多いのだという。
 静かで美しい水面の下にどれだけの死体が眠っているのか。一度、沼から人の死体が上ったことがあるらしい。その年は雨が少なかった。少し干上がり、沼の底が露になって、そこから人の指が出ているのが発見された。遺体は屍蝋化していたが、髷を結い、着物を着ていたそうだ。


(記: 2021-12-23)

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