見出し画像

山の暮らし

 ガラガラという音がする。ちょうどキャスターの着いたバッグを道路で引き摺るときの音のようだ。しかし、この家の周囲にはアスファルトで舗装した道はない。
 ここは山の中で、ここまで来るには舗装のない林道を通り、更に登山道を少し辿って、森の中に踏み込む必要がある。四方を木々で囲まれた庵である。一軒家の古民家を別荘にしているのだ。
 私は一人でここに籠っている。電気は通っているが、かなりの山の中であり、家族も含めて他に人はいない。ごく稀に登山者が紛れ込むことがあるが、来客はほぼない。郵便は局留めにしているし、ほとんど来ない。宅配便も来ない。
 私はここで一人であることに耽溺しているといっていい。ここで死ねば発見されるまでにずいぶんかかるだろう。そういうところも気に入っている。
 日々本を読んだり、思索を文章でまとめたり、坐禅をしたりしている。坐禅は別に何か悟りたいとかいう意図はなく、ただ暇だからである。
 二週に一度、食料品の買い出しや、その他の雑用を片付けにいく以外にはこの庵に篭もり切りである。
 ずっと山の中にいると、割と頻繁に奇妙なことは起きる。眠っている間に家の周囲をぐるぐる回るものがいる。そういう気配がする。草を踏み分ける音がするのだ。それだけでなく、その気配が鈴を鳴らしたりする。夜、家の周囲を何者かが鈴を鳴らしながら、一晩中廻っているのだ。朝になるとその気配も消える。しかし、草を踏んだ跡は残っているので、まるで実体のないものではないらしい。
 鈴の音ならばまだいいが、最近はそれに変わって、キャスターのガラガラいう音になった。一晩中、あのうるさい音がするのは、さすがに閉口した。
 そういう不思議なことは、最初はその正体を見極めようとも思ったが、夜中に家の外に出れば、気配は露と消えたり、カメラや録音をしようとしてもノイズしか残らなかったりしていたので、やがて諦めた。
 周囲に人はいないとは言ったが、何かの不気味な怪異とはともにあって暮らしているのだと言える。


(記: 2021-10-12)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?