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猫とセーター

 黒いセーターを着ていたのがまずかったのか。黒猫がセーターの中に吸い込まれるように消えたのだった。

 大学からの帰り道で、アパートまであと数分というところだ。駅からしばらく歩いて、もうあたりには店もないし、人通りもほとんどなかった。何となく雨の降りそうな匂いがしていたので、少し早足で歩いていた。その足が止まったのは、猫を見たからだった。
 全身真っ黒の猫だ。これまでにこの道で何度か見かけていて、気だるげにこちらを見るのだが、すぐに逃げ出そうとするような警戒感はなかった。ひょっとすると触らせてくれるかも知れないと思ったけれど、そこまで距離を詰めることはできなかったのだ。
 真っ黒クロスケだけど、顔立ちは整っていて、割と小柄だった。とっても可愛い。
 その子が足を止めた数歩先に座っていた。そしてこちらを見上げている。こんなに近くにいるのに、警戒したり逃げ出そうという雰囲気はなかった。視線を合わせないようにしながら、私はもう数歩近寄ってしゃがみこんだ。逃げない。手を伸ばして頭を撫でる。逃げない。触らせてくれた。
 可愛いなあ。撫でているとそれが気に入ったのか、頬を私のてのひらに擦り付けてきた。か、可愛いなあ。何か上げたい。何か上げてこの子をもっと喜ばせたい。私は鞄の中から何か食べ物がないか、あさりだした。何かないかしら。
 手が離れたすきに黒猫はぴょんと飛んで、私の腕の中に入った。ええ! そんなことまでしてくれるの! そのままこてんと身体を預けてくれるこの子のサービス精神に陶然となった。この子、私のことが好きだ。私もこの子のことが超好きだ。二人は相思相愛だ! そう思った。

 そのとき、猫の身体が沈み始めた。私のセーターの中に。
 この子の毛の色と私のセーターの色はほとんど同じで、ぴったりと抱き上げると、どこからどこまでが猫か判らないくらいだった。猫が頭をセーターにぐりぐりと押し付けてくる。何のつもりか判らないけれど可愛いな。小さな力の入り具合が心地いい。
 しかし、ふとその力が抜けたようになった。押し付けるのを止めたのだろうと目を落としてみると、猫の頭が消えていた。しかし、猫の身体はなおもジタバタと私の身体の方に進んでくる。何が起きているのか判らない。猫は頭から私の中に潜り込んできている。別に服に穴が開いているわけでもない。身体の中に穴が開くような感覚もない。ただ、猫は脚を蹴って、私のセーターの中に入っていくのだ。
 驚く間もなく、猫はセーターの中に消えていった。最後に細長い尻尾が、するりとセーターに吸い込まれていくのが見えた。え?
 私は呆然とし、後ろを振り返った。私の身体を突き抜けて、背後に抜けた猫が、そのまま道を走り去っていく姿が見えるのではないか。しかし、そんなことはなかった。今のは目の錯覚で、どこかの影に入り込んでいるのでは? そう、例えば私の鞄の中とか。
 トートバッグをあらためて覗き込んだが、もちろん猫の姿はなかった。小さな黒猫は私の身体の中に消えてしまったようだった。
 私は往来であることを忘れて、着ていたセーターを捲って、お腹を点検したが、傷一つ見付からなかった。何が起きたのか判らない。私は狐につままれた気持ちになって立ち上がり、自分の部屋に帰っていった。途中何度もさっきの猫のいた場所を振り返りながら。

 家に辿り着いてすぐに雨が降り出した。

 それから特に何もない。近所であの猫を見なくなったが、私の身辺に異常はない。黒いセーターも普通の服と変わらない。
 変わらないのだが、あのセーターはもう着ることはない。小さな猫のベッドを買って、その中に軽く畳んで入れている。時々、チュールを買って、陰膳みたいにその前にお供えしてみたりしている。
 あのささやかながらも、奇妙なことはもう終わったことなのか、まだ続いていることなのか。
 あの子また戻ってきてくれないかな。


(記: 2021-12-16)

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