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他人の足

 娘は私がかなり高齢になってから出来た子供で、まだ学生である。
 対して私はもう老人と言っていい年齢だ。そして私は既に死んでいる。
 自分が死にかけていることに気付いたのは、ある朝目覚めたときである。自分のベッドの中に異物感を覚えたのだ。寝ている自分の身体に密着して、何か不快なものがそこにはあった。
 まだ目で見ないうちから、これは悍しいものであることが直感的に判った。
 一瞬触った感蝕では、べったりと湿った弾力のない柔らかい物だ。かなり大きそうだ。これは何だ。誰が何を私のベッドに放り込んだのだ? 寝ているうちに私に何をした?
 私は娘と二人暮しだ。娘が私にこんなひどいことをするとは思えず、そうであれば誰か他人が我が家に侵入し、こんなことにしたことになる。私は目覚めた状態から動けないまま、怒りと恐しさに身を震わせた。
 それでも、勇を奮って起き上がることにしたのは、このようなことをしでかす異常者、犯罪者が娘に何かしたのではないか、ということに思い至ったからだ。娘の無事を確かめなければならない。すぐに起き出すのだ。自分の布団の中に挿し入れられた、不快極まる何かを目のあたりにすることになろうとも。
 私は布団を撥ね除けた。何ということだ。足だ。人間の足が一本丸ごとベッドの上にあった。誰かの足を切り取って、私の寝床に入れたのだ。あまりにも猟奇的だ。異常者のやることだ。生理的嫌悪感に居ても立ってもいなれない。
 その足から少しでも身を遠ざけようとすると、私の身体の動きに合わせて、ずるずるとその足もついて来るではないか。よく見るとその足は私の身体に縫い付けられているのであった。私の足のあったところにだ。私の足を切除して、他人の足を無理にくっつけたのだ。そんな手術が出来るのか判らないが、現に自分の身体に他人の足を接着させられているのだ。
 あまりの悍ましさに私は吐き気を催した。吐くものはなく空嘔をくり返した。他人の足を自分にくくり着けられたのだ。足の付け根から、異様な感覚が伝わってくる。わずかな腐臭もする。この足は死体だ。寝ている間に、何者かが私の足を切り、死体の足を代わりに付けたのだ。どうしてそんなことを。
 私はパニックになり、叫び出した。おおう。いや、叫ぶな。これをした人間がまだそばに居るかも知れない。それは間違いなく異常者だ。娘だ。娘の無事を確かめるのだ。娘もこのようなひどい目に合わされてはいないか。娘は大丈夫なのか。
 私はベッドを下り、娘の元に向かおうとした。歩こうとすると、ぬるぬるした脈動のような感覚が足の付け根から身体に流れ込んでくる。腐った汚液が私の身体を昇ってくる。その不快感と、足のあった場所からの痺れるような感覚に耐えられず、私は歩調を乱し、何度か転倒した。
 廊下に出て、壁を頼りに娘の部屋へ行く。娘は遅く起きる。いや、私が早起きなだけだ。老人はそういうものだから。娘は無事か娘は無事か。よろめきながら私は娘の部屋の前に立ち、ドアを開けた。娘はそこにいた。まだパジャマでベッドから起き上がったところだった。
 いきなり部屋のドアを開けた無礼に驚いたようだったが、私の顔色が只事ではなかったのだろう。
「パパどうしたの?」
 娘が私のことをパパと呼ぶのはまだ幼ない頃、妻が健在だった頃のこと、それからはお父さんと呼ぶのだが、ふとしたタイミングでパパと呼ぶことがある。それを耳にすると、いつでもかすかな慰撫を得る。
 このときも毛筋ほどのそれを感じたが、娘が慌てて駈け寄るのを手で制し、警察を呼ぶように何とか伝えた。そして逃げろ、隠れろと言ったところまでは憶えているが、そのから先の記憶はなく、娘は警察ではなく、まず救急車を呼び、私は病院に運ばれた。その後で来た警察が、家には侵入者の形跡はないと言った。
 私は病院で検査を受けた。自分の足が切除され、腐りかけた他人の足が継がれている。そういう主張は最初はまともに扱われず、私の正気を疑われることとなった。目覚めた瞬間の驚愕が遠くなると、自分でも狂気じみているとは思うところはあったが、だが実際にそう感じられるのだ。自分の身体についている脚は自分のものと感じられず、腐って黒ずみ、腐臭も感じられる。医師も看護師もそんなことはないと口を揃えていうが、自分の認識は否定できないのだ。例え外からは妄想としか判断できないとしても。
 だが、やがて私の症状には『コタール症候群』という診断が下された。自分自身をや自分の身体の部分を死んでいると認識するという神経障害であるらしい。診断され、病名が付いたことで、医師たちは安心した。これで診療方針を検討することができる。私も少し安心はしたが、しかし、自分に死体が継がれているという感覚がそれで柔らぐわけではないのだ。それでも、私の身体はそれ以外は健康であり、私には腐って見える脚も健康で十全であった。
 私は家に帰された。
 それからも、私は身体の端から腐敗が進行し、心臓は腐った体液を溶けかけた組織に送り出す。錯覚のはずだが、確信しかできない。私は死んでいるのだ。ベッドに横たわり天井だけを見詰めている。その視界に娘が映るときだけは、わずかに心が安らぐ。
「お父さん……」
 まるで、墓標に話しかけられているような気がする。私は遠くから娘の幸せを心より願う。


(記: 2021-01-29)

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