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ノスタルジーはやってくる

久しぶりに近所を散歩していたら、昔通っていた幼稚園が更地になっていた。園庭を覗いてみると何本か木が残されているだけで砂場すら取り払われていた。

成人して4年が経とうとしているが、不思議なもので幼稚園のどこに何があったのかはほとんど正確に覚えていた。

あそこにすべり台と登り棒の遊具があって、砂場の近くにはうんていがあって。目の前には教室があって、その裏の、敷地内ぎりぎりのところにはスクーター置き場があって。

幼稚園がまだあったときには入り口からは見えなかった全体図がすぐに頭に浮かんだ。物の配置を覚えていたことに加えて、俯瞰図で見ることもできるようになったらしい。

懐かしい思いをしまってその場を後にした。名残惜しさみたいなものは微塵も感じられず、足はすぐに動いた。

年末でもないのに大掃除をしていた。何かの資料、学生時代のプリント、着なくなった服もたくさんあった。

いるもの、いらないもの。それぞれを分けていく。分けていくうちに、ああこれは去年いるものとして残したんだと気付く。でもそれを容赦なく捨てる。

捨てる。捨てる。一応捨てる。いる。捨てる。一応いる。

明らかに捨てるものの方が多かった。というよりも使っていないものが多かった。1年使っていないものはいらないものだという判断基準が自分の中に芽生えていた。

片づけ終わればたくさんのゴミ袋が出た。いらなくなった服はまとめて姉に託した。フリーマーケットで売れるらしい。片付きさえすればなんでもよかった。売り上げを少し分けてもらって嬉しい気持ちにはなった。

過去の思い出にすがったことはなかった。絶対にそうかと言われれば少し考えるが多分なかった。

過去は過去、現在は現在、未来は未来。楽天的とか前向きではなくて、多分諦めに近い感情だった。

過去に何があっても、現在の自分には関係しないし、未来の自分は完全な未知でしかない。そう思っていた。

現在は過去の積み重ねなのではなくて、常に瞬間の到来でしかない。だから過去は過去、現在は現在、完全に断絶されたものだ。

時折、昔の話で盛り上がることはある。あのときはこうだったよな。あのときあいつがあんなこと言って。でもそれだけだ。過去に戻れるわけではないし、結局は現在はずっと到来し続けている。

過去のことを話す現在が常に目の前にある。

思い出は簡単だと思う。勝手に美化されるし、ありもしないでっち上げもできる。

誰も覚えていないことならなおさらだ。あたかもそんな現実があったかのように誰でもヒーローになれる。

だから思い出は、過去は信用がならない。あまりにも簡単すぎて。現実の難しさの前では光って見えるけど脆くて。その脆さはときに残酷で。

そして思い出はふいによみがえる。過去の対象物に触れたとき、何かの選択を迫られたとき、本当に何でもないときに。

泉のようにこぽこぽと溢れて、噴水のように勢いよく飛び出す。なぜかは分からない。思い出は制御できないから嫌いだ。

溢れる、飛び出す、零れる。無限に思えるほど湧き出る。でもいつかは枯渇する。枯れるはずなのに、全部できっても気がつかない。枯れたことに気が付かせない。まだ出るんじゃないかという希望すらある。思い出の好きなところだ。

どの思い出も希望があるわけじゃないし、嫌な記憶だってもちろん甦る。でも甦るだけだ。それは現在に何の影響も及ぼさない。

影響しないから生きていける。過去に取りつかれて現在を生きれる人はいない。でも、影響しないから。それが分かっているから同時に一抹の寂しさが滲む。

どうにもならない。手出しのできない結末を知っている映像が目の前に薄く映し出される。それはしっかりと目をこらさないと見えない。現在が常に目の前にあるから。現在にいながら過去を見つめるのは難しい。

どうにか見ることができても何もできない。脚色はできても自分の知っている現実は動かせない。どれだけもどかしさを感じても、なす術はない。

日常の隙間に、感情の隙間にそれはやってくる。春の木漏れ日、夏の大雨、秋の夕暮れ、冬の夜。ノスタルジーはやってくる。

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