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短編 『蛍の行方に、明かりが灯る』

「蛍は、一週間ほどで死んでしまうんだ」
 まだ小学生のわたしに、兄は語りかけた。二人で毎日のように、蛍を草原へ見に来ていた頃の話だ。
「どうして?」
 純粋な疑問だったからか、幼いわたしは兄に問いかけた。柔らかな風で、白と黄色に彩られた花が揺れるのを、ただ眺めていた。
「成虫になると、食べ物が食べられずに水しか飲めなくなってしまうんだよ」
 苦笑しながら、兄はわたしに優しく語りかける。いつだって怒鳴ることもなく、何か間違っていたら優しく正してくれるのが兄だった。
 足元から伸び広がる葉から、数匹の蛍が飛び立ち、光を放つ。何度この翠色の輝きを見ても、星や月の光とは異なる不思議な明かりだった。
「一週間しか生きられないなんて、悲しいね」
 その時のわたしは、本当に悲しくて泣きそうだった。七日間しか過ごせない短い命に、同情していたからだ。
「たしかに、悲しいことだよ」
 言いながら、兄はわたしの頭をゆっくりと撫でた。それだけで、少し安心出来た。
 ふいに、兄は空を見上げて、消え入るぐらい小さな声で呟いた。
「でも結局、僕も蛍と同じなのかもしれない」
 当時のわたしは、兄がどんな意味でこの言葉を紡いだのか、理解出来なかった。
 自分の呟きが、わたしに届いていないと思ったのか、元の優しい表情を浮かべて、兄はわたしの手を引いた。
「そろそろ帰ろうか」
 その場から歩き出すまで、少し色素の薄い、灰色に似た兄の瞳を、しばらく見つめていた。
 この兄の言葉を最後に、わたしは蛍を見に行っていない。あの日二人で蛍を見た次の日、兄は自殺で亡くなった。
 あれから、十年が経つ。兄の残した呟きを理解出来ないまま、わたしは長い時を過ごしてきた。そしてまた、蛍の季節が巡って来る。

 高校最後の夏は、毎日が肌を刺すような暑さだ。夏休み前の登校最終日、わたしは一人で真っ直ぐ帰路を辿っていた。
 スクールバッグから水筒を取り出し、歩きながら麦茶を飲み干す。冷えていたら少しは涼しくなるのだが、既に中の氷は溶けており、生ぬるくなっていた。喉は潤せたけれども気分は落ち込み、麦茶の味が舌にへばりついた感覚がする。最悪だった。
 わたしは夏が嫌いだ。ただ暑いからではなく、汗をかき、余計に疲労感が溜まり、身体的にも精神的にも息苦しいからだ。この時期に行われる体育の授業など、以ての外だった。
 祭りや海、花火など、人々を湧き立たせる催しも多々あるが、わたしは特に興味がない。そんな場所へ行って楽しめないのも嫌だし、楽しめていない自分を自覚するのは、もっと嫌だった。
 帰り道の途中、歩道から外れた小さな湖が目に入る。今年の三月頃まではよく訪れていた場所だが、最近は立ち寄っていない。湖をそのまま通り過ぎようとしたところ、町の掲示板に貼られた広報紙に、ふと目が止まった。
 その貼り紙には、湖にいる蛍の発生時期が記されていた。今週から来週にかけてがピークらしく、美しい光景が見られるかもしれない、と宣伝されていた。
「蛍、ね」
 一人呟きながら、いつの間に貼り紙の前で立ち止まっていた自分の足を、掲示板から離すように動かす。立ち止まった理由も、あの貼り紙に、後ろ髪を引かれる思いが自分にあるのも、全部分かっていた。それを認めたくなくて、一刻も早く家路を急いだ。
 家に辿り着き、自分の部屋のベッドへ仰向けに倒れ込む。扇風機もエアコンもつけていない熱気のこもった部屋だったが、今は気にならなかった。
 夏が嫌いになった本当の理由は、兄が亡くなった季節だからだ。毎年この時期になると、兄の言葉と蛍が飛び回る光景が、どうしても頭をよぎる。毎年頭を抱えて思い出さないように過ごしてきて、十年の月日が流れた。それでも、兄の姿と蛍の光を忘れたことは、一度も無かった。何でもないことはすぐに思い出せなくなってしまうのに、この思い出は、わたしに忘れさせてくれない。
 いい加減に、折り合いを付けなければならないのは分かっていた。兄を過去にしたまま思い出に出来ず、足踏みして生きていくのは、間違っている。兄の死を乗り越えて、前に進むべきだ。
 今まで避けてきた感情と向き合い、乗り越える。十年という区切りの良い年で、この季節だからこそ、チャンスだと思えた。
 わたしは今夜、蛍を見に行く決意を固めた。

 軽く睡眠を取り、家族へは散歩と適当な理由をつけて外へ繰り出した。日は沈み、真っ暗な空に浮かんだ月と星が辺りを照らす。外灯よりも強いその光は、これからわたしが向かう場所への道標となっていた。
 歩き始めて十分程が経ち、小さな湖が見えてくる。真夜中の時間帯だからか、人っ子一人すれ違わなかった。微かなわたしの足音だけが、辺りに響き渡る。消え入ってしまいそうな音が、黒い湖に吸い込まれてゆく。
 湖を囲む草原に足を踏み入れて、わたしは水辺沿いに歩を進める。道の外れから見渡せる湖の周辺からでも蛍は眺められるが、わたしが兄と過ごした草原は、湖の先にあった。曖昧な記憶を頼りに、道を辿る。
 本当は、思い出の場所へ向かいたくなかった。段々鮮明になる記憶が、わたしの足をすくませる。長年避けていた存在と向き合うのは、覚悟を決めていても怖いものだった。
 蒸し暑さで吹き出た額の汗を拭いながら、ただ足を前へ進める。歩くことに対して自分の意志を強く抱いたのは、初めての体験だった。
 それを何十回と繰り返した頃、ついに開けた場所へ辿り着いた。
 咲き乱れる白と黄色の花々が、地面を鮮やかに照らしている。この場所に人工的な光は一つも無いのに、たしかな明かりが灯っていた。
 草花に埋もれた石畳を頼りに、更に奥へ進む。わたしの足が当たり揺れる草花から、無数の蛍が飛び立つ。翠色の光が加わり、辺りが一層明るくなる。
「本当に、綺麗な所」
 わたしは思わず呟く。こんなにも幻想的な景色を独り占めするのは、少し気が引けるのですが。兄がわたしの隣でこの光景を目にしていた時は、もっと安らかな気持ちだった。
 とめどない考えを巡らせながら歩いていたところ、石畳の先に何か気配を感じた。わたしはゆっくりと動かしていた足を止めて、目を細めながら道の先へ視線を移した。
 そこには、人影がいた。この時間帯に他の人がいるとは考えていなかったので、少し驚いた。
 わたし以外の人が、こんな時間に、何が目的でこの場へ足を運んだのか。有り得ない可能性も考えつつ、足を早めて人影がいる場所へ向かう。
「あの」
 人影に追いつき、その背中に声を掛けた。後ろ姿から、背の高い男性のようだった。真夜中の空に劣らない、真っ黒な浴衣を身につけていた。
 わたしの声に反応して、彼が振り向く。全体的に長い黒髪が瞳を覆っていて、表情がまるで見えなかった。
「こんばんは」
 こちらに顔を向けた彼に、わたしは更に声を掛ける。微笑みながら、相手の反応を窺っていた。
 静寂が二人を包み込む中、彼がゆっくりと言葉を発した。
「こんばんは」
 見た目からは想像できない、男性にしては高めの声だった。口元だけで笑みを浮かべている彼を見て見て、わたしは少し安心した。
「ここで何をしているんですか?」
 わたしの問いかけに答えるかのように、彼は空を見上げた。それと同時に、周りにいた数匹の蛍が一斉に飛び立つ。
「蛍を、見に来たんだ」
 彼は自分の手を胸の前へ持っていき、指先を虚空へ伸ばす。先程飛び立っていた蛍が一匹、伸ばされた指にとまった。しばらく彼の元に留まる蛍を見つめつつ、わたしはまた問いかける。
「蛍が、好きなの?」
 再び彼の指先から蛍が飛び立ち、夜空に光が舞う。それらを見送りながら、彼が答える。
「そうだね。好きだったよ」
 彼の言葉に、わたしの笑顔が剥がれ落ちそうになる。その言い方が、記憶の中にいる兄とあまりにも似ていて、不意を突かれてしまった。
 兄はもう、この世にはいない。もう一度自分に強く言い聞かせながら、わたしはもう一度笑顔を作った。
「君も、蛍が好きなの?」
 聞かれたことと同じように、彼が尋ねる。前髪に隠れた彼の瞳が、喜びを映しているのか、哀しみを映してるのか、わたしには分からない。
「わたしも、好きだったんです」
 少し考える素振りを見せてから、わたしは答える。
 そう、好きだった。明るくて、儚くて、懸命に光を灯す蛍を、かつてわたしは目を輝かせて眺めていた。けれども今は、好きとは呼べない。あの翠色の光が、兄を空へ連れて行ってしまったように思えているからだ。
「あの」
 わたしの口から、勝手に言葉が出てくる。何を言おうとしていたか、考えているわけではなかった。
 首を少し傾げている彼に、わたしは続けた。
「もしよければ、わたしの話を聞いてくれませんか?」
 咄嗟に浮かんできた台詞を、彼に投げかける。何故こんなことを言ったのか、自分でも分からない。それでも、わたしは誰かに兄の話を聞いて欲しかったのかもしれない。何故だか、彼なら優しく聞いてくれるだろう、という出所の分からない安心感を抱いていた。
 わたしが考えた通り、彼は何も言わずに頷いた。

「この蛍の場所は、兄さんが教えてくれたんです」
 わたしが知っている兄について、淡々と話し続けた。優しい人だったこと、いつもわたしを引っ張ってくれたこと、この場所へ連れて来てくれたこと。ずっと誰にも話さずに放っておいた過去が、記憶から外へ出る言葉に変わり、やがて想い出になる。溜め込んできたわたしの感情を吐露するのは、泣くほど嬉しくて、哀しかった。
 蛍に囲まれた彼は頷きながら、わたしの話に耳を傾け続けた。口を挟むでもなく、興味を失くすわけでもなく、ただ、隣に寄り添って居てくれた。
 兄が亡くなるまでの話を一通り終えて、わたしは大きく息をつく。こんなにも長く、誰かに話をしたのは久しぶりだった。天候の暑さと、言葉を沢山紡いだことによって額に流れる汗は、それほど不快ではなかった。
 わたしの話が終わり、しばらく周りに静寂が訪れる。周囲を飛び回る蛍の小さな音色だけが、草原に鳴り響く。
「君の名前は、なんていうの?」
 口を開いた彼から、先程までの話題とはあまり関係ない質問が飛んでくる。何か聞かれると身構えていたが、それは予想外の問いかけだった。
 話を聞いてもらった礼も込めて、一音一音丁寧に、自己紹介を述べた。
「わたしは、七瀬。七瀬あかりといいます」
 わたしの名前を聞いた彼は七瀬、あかり、と繰り返して呟いた。相変わらず、表情は読み取れない。
「いい、名前だね」
 彼の言葉に、わたしは嬉しそうに微笑む。何事も褒められれば、喜ぶのは当然だ。
「ぼくは、君の話を聞けて良かった」
 続ける彼の言葉に、わたしは首をひねる。わたしは話を聞いてもらえて、少し気持ちが楽になったが、彼に何か意味はあったのだろうか。
「どうしてですか?」
 わたしの疑問に、彼は空を仰ぎながら答える。
「君の兄は、独りで背負い過ぎたんじゃないかな」
 彼の透き通った声が、わたしの心に突き刺さる。兄が死を選んだ理由など、幼い頃に考えたことがなかった。現在に至るまで、考えたくもなかった。
「苦しくて辛くて、悩んだ挙句、誰にも打ち明けずに耐えきれなくなる。それが、彼の死に繋がってしまったのかもしれない」
 落ち着いて語る彼に、わたしは何も言わなかった。兄の何を知っているんだ、と怒る気も不思議と起こらなかった。むしろ、彼の言う通りなんじゃないかとすら思ってしまった。
「でも、兄さんは強い人でした」
 わたしは思っていることと真逆の反感を口にした。彼の言い分を認めた自分の心を、否定したかった。
「君の前では、強い人でいたかったんだよ」
 消え入りそうな哀しそうな声で、彼は続ける。
「いくら心が強くても、誰だってヒビが入ったり傷ついたりする。それに向き合わないでいたら、手遅れになるんだよ。そしていつか、折れてしまう。折れたらもう、二度と元には戻らない」
 彼の言葉で、わたしは思い出す。兄の死を教えてくれた時の両親の瞳には、悲しさだけではなく諦めの念も混ざっていた。わたしが歳を重ねても、二人は兄の話題を極度に避けたがっていた。わたしが同じ道を辿るかもしれないことへの、恐怖だったのだろうか。
「でも、君は違った」
 俯いたわたしに今度は優しく、彼は言葉を紡ぐ。
「君は、ヒビが入って傷ついた自分と向き合って、僕に話をした。手遅れになってしまう前に、背負っていたものを少しだけ降ろせたんだ」
 わたしは、目を見開いて彼を見つめる。兄と同じ道を辿ろうと思ったことはない。けれども、わたしもいつか折れてしまう日が来たかもしれない事実を、否定出来なかった。
「だから、君の重荷が少しでも減ったなら、僕は君の話を聞けて良かったと思うよ」
 口元で微笑みながら、彼が締め括る。わたしが抱いた最初の疑問に対して、彼は丁寧に答えてくれていた。
「ありがとう、ございます」
 なんて、優しく言葉を選んでくれる人なんだろうか。傷を抉るような残酷な話を全て受け止め、その傷を癒すような言葉を的確に、わたしへ伝えてくれた。それが何よりも、嬉しかった。
「わたしの傷を受け止めてくれて、ありがとう」
 少し晴れた心で、再びお礼を言う。彼はゆっくりと、首を横に振った。気にしないで、という意味合いだろうか。
「それじゃあ、ぼくは行くよ」
 彼は踵を返して、わたしが来た道と反対の方へ進む。その後ろ姿が寂しく見えて、思わず声を掛ける。
「また、この場所で会えますか?」
 わたしの期待した声に、彼は静かに振り向く。振り返ると同時に、蛍が数匹、空に光を放つ。
「その必要は、もうないよ」
 一陣の、強い風が吹く。わたしを見つめる彼の髪が煽られ、初めて表情が窺えた。真っ直ぐにわたしを見つめる、色素の薄い灰色がかった瞳と目が合った。
「さようなら、あかり」
 再び風が大きく吹き荒れ、わたしは思わず目を閉じる。空に流されてしまいそうな彼の声が、辛うじてわたしの耳に伝わる。
「待って、兄さ–––」
 目を開けた先にあったのは、散らばった緑色の光だけだった。人影は何処にも無く、わたしだけが草原に残される。
 天に昇る光に触れようと、そっと手を伸ばす。その光には触れられず、やがて消えていった。
「幸せな時間を、ありがとう」
 空へ向けて呟くと、わたしに応えるかのように、光に紛れて残った蛍が飛び回る。しばらく宙を彷徨った後、わたしが来た湖がある道へと飛んでゆく。点滅している翠の光は、まるで道標だ。

 蛍の行方に、明かりが灯る。その光を頼りに、帰路を辿る。時折、彼がいた場所を振り返りながら、一歩一歩踏みしめて、前を向く。
 蛍の見せた夢が、わたしの明日を照らしている。昔みたいに、また蛍を好きになれる気がしていた。

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