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代官山蔦屋のトイレは汚い

まず初めに、これは代官山のツタヤを批判したいわけじゃない。
すごくいい場所だし、もっと家が近かったらなぁ、と毎日毎日思っている。

いい本屋(=品揃え×深夜営業の両立)が家の近くにないのはなかなか死活問題で、だからこそ僕は新宿ブックファースト通いがやめられない。
新宿ブックファーストの書籍数と営業時間の組み合わせを凌ぐ本屋ってなかなか見つからない。駅近だしね。

で、たまの休日には代官山の蔦屋まで足を伸ばして、こもってみる。
そんな1日のなかで、ふと考えたことを書いてみたい。


「大人って、どんな教養のインプットよりも、まずトイレを綺麗に使うところからでしょ」


早めに結論を書いてみた。あらゆる「書き方」本に口を酸っぱく言われているし。

代官山という東京屈指のオシャレタウンにある蔦屋書店。あつまる洗練された大人たち。それぞれに仕事や書籍など自分磨きに向かっている。この空間にいることで、自分も頑張ろうという気持ちになれる。
こんな大人たちみたいになりたい、と思わせてくれる丁寧な暮らし感が伝わってくる。

自分も20代後半に入り始めているのに、大人の空気を吸いに行く。大人のオーラが全く出ないから。
ここに来れば何か変わるんじゃないかって、そう思ってる節もある。

そんな尊敬の念を感じながら、トイレで手を洗っている時にふと思った。

「手洗いスペース、水びたし過ぎじゃない?」

代官山の蔦屋のトイレ、その手洗いスペースが水びたしになっている。
ここは「洗練された大人たち」が使っているはずなのに? 彼らが手を洗うと洗面所周りが水びたしになるのか…?

何かおかしくないか? もしかして僕が羨望の眼差しを向けていた彼らは「洗練された大人たち」じゃないのかもしれない。

三段論法のような流れで、「洗練された大人」にバツがついたのだ。

(会社での話になるけれど、僕は手洗い場の周りが濡れてたら拭くようにしている。先輩からの躾の賜物だ。
だからと言って、ツタヤのトイレ掃除をしようとはならないんだけれど。)

そんな習慣がからか、ちょっとだけ不思議な気持ちになった。共有スペースを綺麗に使うのって常識だったし。

昔のフランス貴族のちぐはぐさとちょっと似ている。
豪華絢爛な宮殿で、めいめいにドレスを着飾って舞踏会にのぞむ。そんな陰で排泄物を庭に捨てさせてたせいで、悪臭がひどかったらしい。
一生懸命に綺麗であろうと外面を整えているのに、裏側がそこに伴っていない。

大人が集まって、教養だなんだと言っている場所のトイレが水浸しなのだから。
まずは、トイレを綺麗に使うのが本当の教養なんでしょうよ。共用なんだからね。

ここまで書いてみて、学級委員長の説くモラルの話みたいになってしまった。
言い訳としてだけど、僕は問題提起したいわけじゃないし、憤りを感じているわけでもない。
事実だけを観察して、純粋に面白いなぁと思った。

大人って案外子供なんだな、と。みじんも大人に慣れていない自分も含めて。
それで、思ったのが、

「スタイリッシュな大人であろうと必死な子供たちのことを大人って呼ぶのかなって」

東京で暮らしているとある程度身なりを整えないと街を出歩きづらい。
きっと誰もが心の中で思ってること。

別にどんな格好をしてようが勝手なのだけれど、オシャレな人たちの発する圧力には勝てない。
部屋着では代官山や銀座は歩けない。
これは勝手な仮説だけど、能動的におしゃれをしている人よりも、受動的に服を来ている人の方が多いのではと思っている。

服装や髪型、容姿がまるで戦闘力かのように数値化されて、否応なく人前に引っ張り出されるから。
他人に無関心な街と言いつつ、その場にそぐわない人を弾き出す空間をデザインするエキスパートが集まっているのが東京だから。

でも、「大人って案外子ども」こう考えてみたら少しは気持ちが楽になるのかもしれない。
休日だというのに代官山で自己投資に励むそんな「究極の大人」でさえ、トイレひとつ綺麗に使えないんだから笑

自分が大人じゃないように、他人もきっとそこまで大人じゃないよ。きっと。

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