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●エタ・ジェイムス『フーズ・ブルー? レア・チェス・レコーディングス・フロム・ザ・60s&70s』<ケント・ソウル/クリンク>(11)

【過去の投稿です】2017.7.15.記


リリース当初は、未CD化曲多数という状況だったが、今は大方CDになっていると思う。もっとも、彼女の多彩な才能が一枚にパックされているという意味では、十分存在価値はある。

さらに印象に残ったのは、彼女のバイオグラフィーが丹念に紹介されている翻訳ライナーだ。今回は、こちらをかいつまんで紹介したい。

母親が14才で生んだエタ(本名ジェイムセッタ・ホーキンス)は、母親との繋がりはあったものの、親戚や里親のもとを転々とする。特に里親は、彼女に音楽に限らず色々な経験をさせた。中でも、シスター・ロゼッタ・サープも歌っていた教会に通ったのが、歌手を目指す大きなキッカケとなる。地元では、名前は売れるようになった。

サンフランシスコに住む母親の兄夫婦に預けられて環境が変わった。ギャング連中と付き合うようになり(シュガー・パイ・デサントもその中にいた)鑑別所送りも経験する事に・・・。しかし、歌う事は止めなかったので、ジョニー・オーティスや、恋人ハーヴェイ・フークア、レナード・チェスなどに才能を認められ、開花していった。反面、ドラッグ中毒になり、刑務所暮らしも経験する。付き合う男もDV野郎かジャンキーかという悲劇。それでも、例えば亡くなったレナード・チェスが、家の契約書をこっそり送っていたりと、援助の手を差し伸べる人も多かった。

ついに、更生施設で完全にドラッグと手を切る。音楽面でも幅が広くなり、グラミー賞は3度受賞。それ以前には、リズム&ブルース・ファウンデーションからパイオニア賞を受け、ロックの殿堂入りも果たす。94年の授賞式には、プレゼンターとして、恩人の一人ジョニー・オーティスに賞を手渡すという一幕もあった。

その後、ドラッグは止めても、健康問題は続いていた。肥満解消のため胃のバイパス手術を受けたり、鎮痛剤中毒や尿路感染症、院内感染による敗血症、アルツハイマー症と彼女の「ブルース」は止む事がなかった。それでも、歌い続け、決して過去の人にはならず、死を覚悟したような遺作まで、最後の最後まで歌い続けた偉大なるシンガーである。

I'm so glad

Seven Day Fool

You Can Count on Me

Don't pick me for your fool

My Man Is Together

I'm Sorry For You (Live)

Let Me Know

What Fools We Mortals Be(母親の作品)



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