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彷徨うおっさん19 嫌悪されるオタク(3/6) 先鋭化するオタクとその末路

 前回は嫌なオタクがどうにもマイペースである点について指摘してきた。またその理由として、スポーツなどの協調が求められる趣味を、好きになれないなどの理由で経ていないことや、一人で自分の趣味にのめり込んだ結果、マイペースな生き方になっている可能性を考察した。

 今回は前回の最後「先鋭化しマウントを取り合うオタク」の続きを述べ、先鋭化の果てにたどり着くであろう状況について説明する。

<先鋭化しマウントを取り合うオタク、続き>


 応援目的で気に入った関連商品を購入するのであれば理解はできる。例えば中古の漫画本を買っても作者には1円も入らないので、新品で買うなどすれば、応援をする意味での一定の意義は生じる。

 しかし、関連グッズを完全網羅するまで購入し、イベントは全て漏れなく参加し、手に入りづらいものはオークションなどで獲得、そして(時には得意げに)その事実を誰かに語って聞かせるのは、どうにも鼻持ちならない感じがする。

 本当にそのグッズやイベントがトコトン気に入っているなら良いのだが、義務的、盲目的に買った挙句、色々と厳しめに批評したり、キャンペーンに伴う出費をオタク泣かせなどと毒を吐いている。

 オタクでない人からするとその執着心や消費性向が異常に思えるのだが、その行動の意味を考えるに、入れ込み具合で愛着の証明とし、オタクどうしのマウンティングをしているのではないかとおっさんは思う。

 一方でこうしたオタクは以下のようなことも口にする。

「最近のライトファンには困るよ、作品もまともに買わないし、そのくせイベントには顔を出して、大して語れるわけでもないのに、ニワカが幅を利かせちゃってて、語れる機会が減っちゃうよ。」

 折角同じ作品のファン同士で交流も可能であるのに、どこか攻撃的である。

 こうなってしまうのは、理解不能な、恐らく競争心や優越感の獲得狙いで、コンテンツにお金や労力をトコトンつぎ込み、結果、勝手に特権意識を抱いているからではないだろうか。

 これらのマウンティングはオタクでない人からすれば、「凄いねぇ、かなわないよ」といった言葉でスルー可能だが、嫌なオタクは自分が手に入れていないグッズやイベントの機会を得たものに敵愾心を起こして、議論など何かしらのネガティブなアクションを始めてしまいがちである。

 そして、ライトファンのように「純粋に楽しむこと」や「交流のきっかけ」で終わることなく、ひたすら先鋭化し、ひたすら戦いを続けており、なんとも必死で生きづらそうに見える。

 このように、嫌なオタクはオタク以外の人達だけでなく、オタク同士でも、付き合いづらい人間へと、徐々に凝り固まっていくように思われる。

<オタクであることに誇りを持っているという発想>


 先鋭化し、凝り固まったオタクはオタクで居ることに誇りを抱き始める。これは、例えば勉強やスポーツ、ビジネスなどで高い目標を設定し、それを達成した人と、心理状態は似ているのかもしれない。

 自身が設定した無駄に厳しいルール設定に基づいた、入れ込み度合いの達成によって、自分はこの道のトップランナーであり、専門家である等と自負し始めるのだろう。

 または単純に、特定のコンテンツのファンであること自体を、自身のアイデンティティとしているのではないだろうか。

 信仰心に近い先鋭化の果てに、自分にはそれしか語れることがなくなってしまったものだから、スバラシイ作品を愛し、擁護する自分を肯定することで、アイデンティティを保っているのではないだろうか。
 そこに「誇り」などという言葉を用いて尤もらしく、専門家を気取って。

 だがその誇りは、恐らく大多数の人に理解されないだろう。

 自分でも作品を作り、その下地としてコンテンツを楽しみ、吸収して、自分の生産活動に反映させ、社会に還元するといった「投資」ならばよい。
 だが、嫌なオタクは、本当にただ消費し、その消費量という深さで競おうとする。「誇り」という言葉が妙に気障ったらしい、あるいは狂信者のそれに見えてしまい、一方でどう見られているか自分を客観視できていない。なんとも不健全である。

 昔のオタクのように、電子工作やコンピューター、車などであれば、実務や生活に役に立つ可能性が高く、オタクの外からも評価もされる(尤も、こういう人はオタクとして誇りを持っているのではなく、職人、仕事人として誇りを持っていると思うが)。
 一方で、単にマイナーなコンテンツの消費によってのみ何かを誇るタイプのオタクというのは、自己PRとしては難しい。

 もうひとつ例えを挙げると、同じコンテンツ消費タイプのオタクでも、映画評論家、解説者などに昇華した人は理解を得られているように思う。
 しかし、単に作品を通じた共感を求めるだけのオタクや、どちらがより入れ込んでいるかを競うだけのオタクは、誇りを持っているなどと言っても、なかなか理解されないのではないだろうか。

 その誇りの根源は何か? 誇りを持っていると言えば一目置いてもらえそうだから口にしているだけではないのか? 

 結局はオタク特有の、芝居がかったセリフの一つにも聞こえてしまい、益々周囲に嫌悪感を抱かせるだけで終わるのではないだろうか。

次回に続く

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