私はボクシングが好きだ!:日本人世界王者⑦~ 具志堅用高 ~

元WBA世界ライトフライ級王者、具志堅用高。
私が具志堅の試合をテレビで初めて見たのは、あのグスマンとのタイトルマッチであった。ボクシング好きの私がそれまで名前も知らなかった程、私にとって具志堅用高はすい星のごとく現れた選手であった。
具志堅は、沖縄県石垣市(石垣島)に生まれ、興南高等学校ボクシング部で3年の時、インターハイ・モスキート級優勝。アマチュア時代の戦績は62勝(50KO、RSC)3敗。とんかつ屋でアルバイトをしながら、ボクシングの練習に励んだ。
1976年1月23日、世界同級3位、セサール・ゴメス・キー(アメリカ)との「世界王座挑戦者決定戦」で、具志堅は2回にダウンを奪った後も終始圧倒して7回KO勝ちし、世界王座挑戦のチャンスを得た。
1976年10月10日、WBA世界ライトフライ級王者ファン・ホセ・グスマン(ドミニカ)に9戦目で挑戦。強打の王者に対して、挑戦者・具志堅は開始当初から軽快に動き回り、一発を狙う王者を回転の速い連打で圧倒し、2回、4回にダウンを奪った。そして、7回開始早々、グスマンをロープに追い詰め、コンビネーションブローで3度目のダウンを奪ったところでKO勝ちとなり、沖縄県出身者初の世界王者となった。9戦目での世界王座奪取は当時の国内最短記録となった。
1979年1月7日、リゴベルト・マルカノ(ベネズエラ)を終始圧倒して7回KOに降し、7度目の防衛に成功。当時の日本人世界王者の最多防衛回数を更新(それまでの最多防衛記録は小林弘、輪島功一の6度)。
1979年4月8日、東京・蔵前国技館にて元WBA世界フライ級王者:アルフォンソ・ロペス(パナマ)を7回KOに降し、8度目の防衛に成功。1977年10月の3度目の防衛戦からこれで6連続KO防衛となった。
1980年6月1日、高知県民体育館にてマルチン・バルガス(チリ)を8回KOに降し、12度目の防衛に成功。ジュニアフライ級の世界王座防衛回数世界新記録(当時)を達成。その後、10月12日にはペドロ・フローレス(メキシコ)を苦戦しながらも15回判定に降し、13度目の防衛にも成功(世界王座防衛13度は日本人男子世界王者の最多記録)。
1981年3月8日、前回の防衛戦で対戦したフローレスと再戦。8回に最初のダウンを奪われると、迎えた12回、挑戦者の右ストレートをまともに浴びて2度目のダウン。辛くも立ち上がり試合続行に応じたが挑戦者の追撃に襲われる。ここでセコンドからタオルが投入され世界王座陥落。この試合を最後に現役を引退した。
引退後は解説者として活躍する一方、芸能界でのタレント活動にも参加。1995年には日本人初のボクシング世界王者でもある白井義男と共同で「白井・具志堅スポーツジム」を開設し、元WBC世界フライ級王者、比嘉大吾らを輩出したが、現在はジムは閉設されることとなった。
「カンムリワシ」の異名をとった具志堅用高は、トレードマークとなる、ヒゲとアフロヘアーが印象的であった。具志堅用高は間違いなく、これまでの日本ボクシング史上最強の世界チャンピオンだった、と私は思っている。

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