かなしい



この間ものすごくかなしいことがあった。久しぶりに会った友達と、食事をしていた時

「犬、飼ってたんだよね」

友達がそう言った。友達はいかにその犬を愛していたかを語り始めた。

「私もいぬ、飼ってたよ。ビーグル。今はもう居ないけど」

そう言うと

「いつ死んだの?」

と聞くから、小学生の時だと答えた。すると

「そうなんだ。俺は大学の時に亡くなったから…この悲しみは分かんないよね。小学生の時とか記憶も思い出もあんまないでしょ」

彼は少し笑いながらこの言葉を発した。

私は不意打ちに殴られたような気分で、そのあと話す気力すらなくなってしまった。このことがどうしようもなくかなしくて、帰りの電車でも泣いてしまった。

帰り、私はいぬと過ごした日々を思い出していた。毎日耳が遠いいぬが住んでいる小屋をトントンとノックして、散歩に出かける。帰りにエサをあげて、自分のご飯の時間がくるまでずっといぬのそばに居た。一緒に過ごした時間は確かに短かったかもしれないが、私はいぬが大好きで愛していた。匂いも触り心地も、大好きなおやつも散歩の道も、朧気ながら記憶として残っている。

別れは突然だった。学校から帰ると玄関の前でいぬが横たわっていた。撫でるとすごく冷たい。父が帰ってくると、いぬを抱きながら泣いていた。父が泣いている姿を見るのはこの時が初めてだった。

あぁ死んじゃったんだな、私はようやく理解した。しかし涙が出てこなかった。母は「悲しいなら泣いて良いんだよ」と言ってくれたが、我慢をしていた訳ではなく涙が出てこなかったのだ。

しばらく経って、いぬがそばに居ないことが急に悲しくなった。初めて死というものを実感した。そしてその晩初めてトイレの中でおんおん泣いた。泣くことができたのだ。


彼の言葉に共感する人もいるんだろうなと思う。それもわかる。年を重ねた今の方が死が悲しいことを知っているし、その後を想像できるから。

あの時、あの人が本当はどういう感情だったのか、あの人といぬ(または人、もの)との間にどういう思い出があるのか、当人にしかわからない。

だから死に対する悲しみも比べられない。と思う。いつ亡くしたかで悲しみの度合いは変わるかもしれないけど、それを人と比べることはあってはならないんじゃないか。


そんなことを思いながらあの日電車で涙がポロポロ止まらなかった。


かなしいなぁ。かなしい。好きな友達に言われたことがかなしい。なにもかもがかなしいけど、この感情をその場で相手に伝えられなかったことが1番かなしいと感じた。


私はその時感じた悲しみ、怒り、喜びを相手に向けることができない。怖いのだ。だからこうやって書くことでしか発散できない。



それがすごく、かなしい。

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