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仕事でもなんでも、気が重いときは避けた方が無難という話

生きる意味について

 最近とくに思うことが、「自分のこころが何か嫌だな~」とか「やりたくないな~」と感じることを無理にやるとろくなことがない、という事だ。
 このことを話す前提として、まず生きる意味について話したいと思う。
 20代の頃から私は、精神世界に興味があり、心理学の本を読んだりして人のこころについて色々と勉強していた。まだ、SNSなどもない時代である。
 
 そのおかげで、先人たちの知恵、知識を得ることができたので、今の若者が悩むようなことの一部は悩まずに済んでいるのかもしれない。その一つが、生きる意味である。

 最近は、SNSなどで無職の若者が「生きる意味が分からない。」と嘆く様子が散見される。しかし、私は若い頃すでにこの生きる意味について一つの回答を得てしまったので、そのこと自体で悩むことはない。
 ただ、所詮生きる意味について分かったところで、生きること自体が辛い、もう人生辞めたいと思う事は多々あるけれど・・・。

 前置きが長くなってしまったが、生きる意味はない、というのが答えである。なんだ、詐欺みたいだなと思われるかもしれないが、実際にそうなのである。
 要するに全人類に共通する生きる意味なんてあるわけがないのである。では、人は目的なしにどうやって生きていけばよいのか?すなわち、人はどういうことを心の拠り所として生きていけばよいのか?
 それについての回答も得られている。
 つまり、生きる意味と呼べる定まった明確なものはないが、生きる意味は常に各々に与えられている、ということである。どういうことか?

 それは例えば、何か〇〇について頑張ってみようという感情がふと湧いてくるとか、偶然人づてに有益な情報が入ってくると言ったことだ。ネットサーフィンをしている過程で、気になる情報が目に飛び込んでくるでもいい。 
  これらは、自分が意識して発生させた事象ではなく、ある意味見えない力が、自然ともたらしたものである。〇〇をやってみようという感情は、意識して想起したものではなく、ふと湧いてくるものである。

 そう、生きる意味とは、まさに降って湧いたように、自然ともたらされるものなのである。だから、生きる意味は各人によって異なるし、その者の置かれた状況が変化するとそれに応じて生きる意味も少しずつ変容していくことにもなるだろう。
 つまり、生きる意味をこれ、と定義することなどそもそもできないのだ。

こころに湧いてきたことをとりあえずやってみる

 従って、これを頑張ってみようという思いが湧いてきたらそれをやればいいし、何か気になる情報が偶然目に飛び込んできたらそれについて調べてみるでもいい、生きる意味はそうやって自分に降って湧いてきたものの中から取捨選択して見つけていくものだ。

 逆に言うと、これは何かやりたくないと思えるものや、こういう状況に置かれるのは苦手というものは、仕事などで避けようがない場合を除き、あまり近寄らない方がよいかもしれない。もちろん、あまり気は進まない、でもやってみようと、気持ちを前向きに持っていける分にはまったく問題ない。
 しかし、あまりやりたくない、でもやってみようの後にやっぱりどうしても嫌だ、そのことを考えるたびに気が重くなってしまう、そういう場合はやるべきではないことの可能性が高い。
 特に自分の気持ちよりも他人からの評価とか、世間体など他人軸で物事を考えていると、まず上手くいかないので注意すべきだ。

 これは、私自身も何度も経験していることだ。

求人サイトを閲覧する落とし穴

 私は、働くことで心が苦しくなっていって辞めた経験から、次は無理なく働ける職場を探そうと決めた。これは、本心である。しかし、求人サイトを見てるとつい給料〇〇円、賞与〇か月分、勤務時間9:00~17:00とか条件面ばかりに目が行ってしまう。これが、求人サイトの落とし穴だ。ただ、掲載された文字ずらだけを見てしまって、自分がその職場でどういう状況で働くことになるか、どういう人たちに囲まれて、どういうストレスフルな状況に置かれて、という最も肝心な部分が思考から抜け落ちてしまうのだ。
 それは、あたかも、何の感情ももたないロボットが与えられた条件でタスクをこなせば、決められた給料が得られるような視点で物事を見ているのと同じことだ。
 しかし、仕事をするのはロボットではなく、人間だ。
 その月収〇〇円、賞与〇か月分の待遇を得るためにどれだけのことを耐え忍ぶか、そこに最も意識を向けなければならない。
 その実際に自分が働いている姿を想像して、それでも自分が無理なくやっていけそう、長く続けられそうと思える仕事に応募するのが本筋なのだ。

それでもつい待遇面、条件面ばかりに目がいき応募をしてしまう

 このところ、それが頭では分かっているが、ついたまに条件面だけにつられて応募してしまうことがある。そうすると、必ずと言っていいほど失敗する。
 私は、ある程度文章も書けるし、経歴もまあ晒してもそれほど恥ずかしいものではないので、書類は通ることが多い。しかし、面接で失敗するのだ。

 どんなに面接対策をしても、やはり心のどこかで「ここでは本当はやっていけそうにない。」、という気持ちが残っているので形式上そつなく受け答えをしていても、ぎこちなさが出てしまう。
 
 先日受けた面接などは、万全に対策をして臨んだが、いつまでも重苦しい気持ちがぬぐえなかった。
 まあ、だれでも初出勤が近づくと気が重くなるくらいは普通かもしれないが、私の場合はもう書類選考が通り、面接が決まった時点で気が重かったのだ。つまり、将来その職場で働く自分自身の姿を思い描いて、とても自分はやっていけそうにないことに今更ながら気づいてしまった。そして、まだ働き始めてもないのに、なぜか自分はそこで働かなければという義務感のようなものを感じてしまい、苦しくなってしまったのだ。

 でも、その本心と自分の行動面が完全に一体化できていないので、一生懸命面接対策はする。そして、案の定撃沈である。振り返ると、面接自体はそつなくできたと思ったが、どこかぎこちない部分も出てしまった。面接が終わったら、受かっても辞退しようと思ったので、不採用の通知が来たときはむしろホッとしたくらいだ。あ~、落としてくれてありがとうとまで思った。

 しかし、本来であれば、書類が通ったのに嬉しくもなくむしろ重い気持ちがした時点で面接を辞退すべきだったのだ。
 これからは、待遇面とか、世間体とか、本心とは違う様々な感情に惑わされて余計なことをしなくて済むようにしたい。

結論として

 最近は、単発バイトのタイミーをやることが多いがそこでもやはり感じる。申し込み時点でなんか重い気持ちの時は大抵仕事でも嫌な思いをする。

 言葉ではうまく表現できないが、大変そう、でもやろう!と前向きに申し込むときは結果として上手くいくのだ。しかし、何か自分がやる仕事としては違うかな?まあでも大丈夫だろう、くらいの少し受け身な感じで申し込む時は大抵上手くいかないのだ。
 だから、自分の気持ちが大事なのはそうなのだが、特に自分がどういう風に感じるときにうまくいくかを客観的にちゃんとわかって選択できることが一番大事なのだと思う。

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