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ブルガリアで死にかけた大学生の話。

2023年8月7日。素晴らしい一日。

初の海外一人旅、ブルガリアに居た。

ブルガリアの山間の村で出会った高校生の子に、「イタリアから友達が遊びに来るので一緒に遊ばない?」と誘われた。
勿論誘いに乗った。それはあまりにも良い選択だった。彼らとの時間は本当に素晴らしいものだった。
都市から離れた郊外の村。家の庭でご飯を食べながら草むらに転がったり、ひまわり畑を歩き回ったり。

本当に、景色も然ることながら時間として美しいと感じる程の体験だった。

ひまわり畑と光芒
ブルガリア人のKateとTiddie、イタリア人のelisa
草むらに転がる。
丘の上の教会でロウソクを灯す。
馬飼いの方と会う
黄昏時

本当に、死にかける前のこのパートだけでも色々と話が尽きない程に素晴らしい時間だった。
この日は最高の夕日を皆で眺め、ご飯を食べて、夜はのんびりと皆で語り合った。
向こうの高校生は政治や哲学のようなトピックでも自分の意見を持っていた。そんなことを語りながら、緩やかに眠りについた。

恐らくこの時の食事の何かが原因の一つと見ている


2023年8月8日。死の淵に立った。

翌日目が覚めると、身体全体に悪寒と倦怠感、熱っぽさを感じた。昨晩、薄い布団で窓を開けて寝てしまったのが原因だとすぐに思った。
「ああ、風邪ひいちゃった…。もっと気をつけて寝ておけば…」とこの時は思っていた。
後々風邪どころでは済まなくなるのも知らずに。

その後、郊外から都市の友人宅へ移動。
友人らは街へ繰り出すと言うけれど、体調が優れないから家で休んでおくと伝えてベッドに横たわった。

38.5度ぐらいの熱の中、何度か寝て起きてを繰り返していた。
段々と腹部がビリビリと痺れるような感覚を感じ始めた。何か少しおかしいな、と思い始めた。普通、風邪で痺れなんて感じるもんか?

それでも横になって寝ていた。
しばらく経った。腹部の痺れが強くなった。
手足にもビリビリと痺れを感じ始めた。

ああ、これはちょっとヤバイかも。
いや、ヤバイな。
そう思っているうちに、手の親指が手のひらにくっつくような形で麻痺し、動かなくなった。
ヤバイ、ヤバすぎる。
自分の手が自分のものでなくなってしまったような感覚。手の形が明らかにおかしい。まるで骨折でもしたかのようないびつな形で硬直している。

固まっていく指で、友人に必死に救急車を求める。


次第に、腕全体が身体にくっつくような形で硬直した。ミイラみたいな感じ。脚ももう全く動かせない。感覚がない。息もまともにできない。
もう、ただ恐怖しかなかった。ヤバイヤバイヤバイ。死にたくない死にたくない。それぐらいしかなかった。

顔面の筋肉が硬直し、目が次第に閉じていく。
この時、人生で初めて、本当の意味で
「自分が死ぬ」ということを意識した。

「ああ、これは本当に死ぬかも」
「自分の人生はここで終わるんだ」
と本気で思った。

人間、死の直前には走馬灯が見えるとかよく言うけど、別にそういうのはなかった。
もう、ただただ「死にたくない」しかなかった。



すごくシンプルだった。

死の前では人間はただただどうしようもなく無力だった。

ただ、死にたくないと思うことしかできない。
ただただ、どうしようもなく無力だった。


程なくしてDMを見た友人が急いで戻って来てくれた。
もう半分諦めかけていた頃だったか。

目を開いて話そうとするも、目は殆ど開かずマトモに発話できなかった。
友人が身体をさすってくれ、しばらくすると不思議と身体の硬直が緩んできた。自分を安心させるために沢山話してくれた。友人がいなければどうなっていただろうか。

しかしそれでもまだ動けはしない。
友人の介抱の中、1時間半ぐらいだろうか、医者が来るのを待った。一時的に和らいでいた身体の硬直も、医者が到着した頃にはまたかなりまずい状態に戻っていた。意識も朦朧としていた。

医者は聴診器で胸をポンポンすると、「パニックアタック(日本語で言うとパニック障害にあたるのかな?)だ。お前の身体は問題ない。自分で立ち上がって治せ」
医者はそう言って自分の痺れた脚をシバいてきた。
普通に叫びながらキレた。いやシバくな。

手脚の痺れは酷くなる一方。動けないってと言い、半分泣きべそをかきながら、友人に支えられ動かない手脚で立ち上がり椅子まで移動した。(と言うか引きずられた)

椅子に座って医者の言う通りただ自然に治るのを待ち、耐えた。1時間?どれぐらいかかったかは覚えていない。ただ朦朧とする意識の中痺れと戦った。最終的に、シバいてきた医者の言う通り本当に痺れは治った。自力で立ち上がれた時は思わず、よっしゃあ!と声に出して喜んだ。(なお皆に日本語は通じない)
既に友人が介抱に戻ってきてくれてから5,6時間が経過していた。

介抱してくれた友人に、有難うと何度も伝え、回復を喜びあった。
Elisa,、Kate、皆本当に本当に有難う。
今自分が生きられているのはあなた達のお陰です。
生きているだけってこんなに有難いものなんだと、初めて身をもって、感じた。


麻痺からの回復以降

何とか回復し、翌日は友人らも元々の旅行の予定もあり、自分も割と動けるような感覚だったので別行動をすることになり、感謝と共に別れを告げた。

しかしまあ、しばらく外にいる内に熱中症のようなしんどさが出てきた。ああ、まだ全然ダメか。すぐホテルを予約して休養。

その日の夜は酷い高熱と悪夢ととんでもない腹痛で深夜に目覚めた。意識が吹っ飛ぶかと思った。
その日以降はと言うと、食中毒の症状。
熱と腹痛、下痢、脱水症状。

かくして、6日間のホテル療養生活を余儀なくされた。2日目にはあまりもの寒気と倦怠感で、「あ、また死に際まで行くかも」と思い病院へ。
血液検査の結果は「ウイルス感染」。

原因は不明瞭だが、食中毒の可能性は全然あると言われた。そして薬を入手。

その後はひたすらホテルでぶっ倒れていた。
就寝時にはあまりもの発汗で凍え、熱を測ると34.5度。これはこれでヤバイなと。ほとんど何も食べていなかったので、そこからは体温を上げるために食べられるものを頑張って摂取し、ベッドに横たわる生活。

もうこれしか食べられないと思い頑張って探した日本食。ありえないぐらい沁みた。
( めちゃくちゃ高かった。)


この期間は本当に孤独だった。周り皆ブルガリア語喋るし。
現地でできた知人のメッセージ上での助けはあったけれど、こんな状況でも一人でホテル予約したり病院行って薬手に入れたりして、孤独の中で生き延びている自分も、今思えば割と凄かったかなと思う。


帰国。そして、死を想う。

帰国の飛行機はトルコのイスタンブールから取っていたので、その便までに飛行機に乗るための体力の回復に専念し、イスタンブールへ飛行機で移動。その後しばらくイスタンブールでも同様にホテルで療養し、帰国の便に搭乗。

無事飛行機に乗れることがめちゃくちゃ嬉しかった。一時は回復して帰国さえできないとも思っていたから。

今まで見た夕焼けの中で一番美しかったかも。


まさか、初の海外一人旅で死にかけるとは思ってもいなかった。初日には、それはそれでハチャメチャなハプニングがあったのだが(それについてもシェアしたい)、それを優に超える死を感じる体験。

当時は、ただただ怖かった。
でも今は良い体験だったとだけ思う。
死を感じるなんてことは人生でほとんどない。
それを21歳で体験することができた。
重い病気などと比べると死を語るには早いのかもしれないけれど、確かに自分は死ぬと思った。

その体験以前から、死を想うことの大切さはずっと意識していたつもりだった。
けれど今は、死を感じ、実は意外と劇的な変化はないのだけれど、でもたしかに死をより想うようになれたと感じる。
死を想うからこそ、生の価値。今生きているという事実の有難みを感じられる。

自分の一つモットーとして持っている言葉に

「メメント・モリ」

という言葉がある。

メメント・モリとは、「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」「死を想え」という意味を持つラテン語の言葉。
「死を意識することで今を大切に生きることができる」というもの。

普段の生活の中で死を意識し、今を大切に生きることは、正直未だに難しいなと思う。
どうしても、普段当たり前のように存在するものの有難みは段々と意識から薄れていってしまう。生きていること、家族がいるということ、健康であること、笑って過ごせるということ。

その有難みを自分達は忘れてしまう。
分かっているつもりでも、それでも本当の意味でそれを理解し、意識に留めることは難しい。

けれどふと思い出した瞬間に、生きている今この瞬間の有難みを思い、幸せを拾い集めて生きていきたいなと、今はより強く思う。

メメント・モリ。死を想って生きていく。
自戒を込めて。

この記事を読んでくださった皆さんも、自分が死ぬことを意識し、当たり前の日常がいかに幸せであるか、思いを馳せてみてくださると嬉しいなと思います。

最後まで読んでくださって有難うございます🙇‍♂️

頑張って書き起こしたので、
いいねやコメントしてくださるとめちゃくちゃ嬉しいです!お願いします!



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