無思考
無思考。
なぜ、考えないのか。
そもそも考えるとは?
国語辞典より、
あれやこれやと思いをめぐらす。その事について、心を知的に使って判断する。
それは家族のことや、自分のこと、仕事のことと様々。
しかしながら、その思考の根本には欲求が1番にある。
自分が満たされたい、自分が得したい、自分がしたいことがしたいとか。
それをする為にどうするのか。
〇〇をこうして、〇〇に〜みたいな工程を作り、実行する
多くの人がやっていること。
なのに、
考えが浅いとか、考えてないと言われる。
それは何故か。
欲求とそのプロセスが繋がっていないから
つまり、
自分の欲求(やりたいこと)→その工程(どうすれば成せるのか)→実行→結果
これをみんな自然とやっている
慣れるとそんなに意識しなくても出来る。
わかりやすく言うと、
ご飯食べたい(やりたいこと)→
何食べるかな(欲求1層目の深堀り)→
肉食べよう(意思決定)→
どこのどんな肉を食べるのか(欲求2層目の深堀り)→
いきなりステーキで400g食べよう(意思決定)→
どこのいきなりステーキ行こうか(工程)→
近くでないかな、場所さがそう(工程)→
あった、なら車で行こう(意思決定&行動)→
行って食べました(行動)→
思った以上に多かったけど意外に食べられてめっちゃおなかいっぱい!(結果&フィードバック)
こんな感じ。
これを書き出して見ると、過去におれがそんなに考えてない事が分かる。
というのも、わりと意思決定を人任せにしてしまうことが多かったからだ。
その方が楽だったし、何より決めてもらうことの方が圧倒的に多かったから。
だからさっきの例に出すと、
ご飯食べたい(欲求)→
何食べるか(欲求1層目の深堀り)→
なんでもいい(思考放棄)→
・・・。
となってしまう。
話が続かないし、終わってしまう。
こういう人がとても多い。
おれ自身もそうだったし、まだまだ出来てない。
友達でも、
たかだかごはんを食べに行くのに30分以上かかってやっと決める人がいたり、
そんなグループに入ると先が思いやられる気持ちになる。
考えるのがめんどくさい気持ちはわかる。
みんな楽に生きたいじゃん?
楽しいことして生きていきたいじゃん?
無駄なこと考えたくないじゃん?
でも、楽しく生きるためには考えないとダメ。
これは何故かと言うと、
なんで楽しく生きていきたいのかが明確になってないといけないから。
明確になってなくても楽しいことたくさんある。
それは事実。
テレビなんかも演出として楽しませるように作ってあるし、YouTubeのエンタメ系の動画も意図的にそういう動画を作っている人が多い
人生それだけじゃないじゃん?
動画とか、テレビはある種第三者目線。
やってる人達は楽しいかもしれない、
でも、第三者である我々はそれを傍観し共感するしかできない。
ではなぜ明確にする必要があるのか?
楽しければそれでいいんじゃないのか?
楽しいはどこから来るものか?
自分の心の中だ。
自分の心の中で楽しいと思えること、それを探して、言葉に出来るようにする。
そうすれば、自ずとその気持ちが伝えた時に本当に楽しいんだなと相手に伝わる
ただ、これは簡単なようでなかなか難しい。
なにせ自分の気持ちだもん。
自分と向き合わなきゃ成立しないこと。
漠然と、好きだよーって言うのは簡単。
でも、本当に好きってなかなか伝わりにくい。
自分が本当に好きかどうか分からない時点では。
ここまで考える人いるかな。
おれもここまで考えたのは初めて。
もしかしたらぐちゃぐちゃで何言ってるのかよく分からないのかもしれない。
それは今のおれの精一杯。
それとnote少しサボってます。
ごめんなさい。
ちゃんと書きます。
サボったらサボった分だけ自分にツケがくるもんね。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
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