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夜明け前の言葉は迷子:天才について

 自分を天才だと思ったことはある?
 私はない。

 いや嘘。嘘ついた。ある。若いというか、幼くて今よりもずっと愚かだったとき。
 そういう時期に自分の能力を信じたことがある。世界をひっくり返せると、そう思っていた。
 まあ当然そんなわけはなくて、今じゃ机のうえのコップに入った水を揺らすのにすら苦労している。

 私は天才ではない。賞を取るでもない、新作が発売前から重版することもない。
 天才、っていうのは大方、誉め言葉だ。天が才を与えた人。特別で優れた才能を持つ人。
 じゃあ、才能ってなんだろう。
 デジタル大辞泉が言うところによれば、「物事を巧みになしうる生まれつきの能力」なんだそうだ。
 私は小説家だ。だから、その文脈で話を進める。
 誰にも真似できない面白い小説を書く。驚くべきスピードで作品を量産する。もっと現実的な話をすれば、売れる小説を書く。
 それらを巧みになしうる生まれつきの能力。それが、「才能」ということらしい。

 つまり天才っていうのは、もうなんか書くことに愛されて生まれてきた人、みたいな意味だ。

 書いてて嫌になってくるな、なんだか。

 小説、あるいは小説を書くことに女神がいたとして、私はこの世に現れた時点でその女神に見離されている。書きたいなら書けば、くらいのことを言われて育った。そして若い頃の一時期、女神が微笑んでくれたと勘違いした。
 実際微笑んでいたとして、それは多分冷笑か苦笑だぞ、と若い頃の自分に言ってやりたい。

 しかし世界は天才の庭ではない。

 非才無才凡才が愉快に織り成す修羅の巷、それが私の思う世界の実態だ。ひと握りの、真実の天才たちが天衣無縫に踊るのを眺めながら、彼らを憎んだり羨んだり自分も彼らの一員だと錯覚(もしくは信仰)したり、あるいは見ないふりをして生きている。

 本当に書くのが嫌になってきた。

 着地点を考えずだらだら書き始めて、飛びながら降りる場所を探す無計画な鳥めいてここまで書いてきたけれど、そんなに悲観的になる必要があるのか今疑問に思っている。
 悲観的な視点で前もって傷ついておいたとして、結局天才の天才性に打ちのめされたら血が流れるだろうに。

 あとはもっと肝心な問題として、天才は私の書きたい小説を書いてくれるわけではない、というのがある。

 一等星が出ているからと言って、執筆机の灯りを点けなくて良いのか、という話だ。多少ロマンチックな喩えになったか。
 星は星として光っておいてもらえれば、方角を知ることもできる。適切な憧れは地図を描くペンになるからだ。
 しかしその光は足元までは届かないし、空ばかり見て歩くわけにもいかない。人混みで前を見ず歩いて街灯にぶつかるような恥ずかしい事態を繰り返すのは避けたい。だいぶ恥ずかしかったぞ、あれ。

 だからまあ、自分で歩くしかないのだ。

 手許と足許を照らすだけの小さなランプを携えて、しっかり前を向いて。
 非才無才凡才には、非才無才凡才なりの戦いかたと生きかたがある。認めたくなくてもそれは事実だと思う。

 天才だって死んでしまったらおしまいだ。戦い抜き、生き抜いてやろう。やっていこう、というやつだ。 

 寝る。