凍る湖、沼田真佑という作家について
凍った湖のほとりを延々と歩いている。
沼田真佑という人物の文章を読む際の感覚を、言葉に表すなら概ねこのようになる。
NHK で放送された「3.11からの「ことば」」というドキュメンタリー番組に沼田氏が出演していた。
氏は「死」や「殺す」といった「大振りな言葉」が本当に必要あるのか、そしてそのような言葉を抑制するようになった、というようなことを述べた。そのわけを、人の死を想像できるようになったからではないか、とも話していた。
巨大な欠落――たとえば人の死のような――に直接に触れることなく、代わりにその気配や輪郭をなぞるように描写することで表すのは、そのためなのかもしれない。
綴る言葉は確かに湖の縁をなぞっている。それを読み、辿って歩く。しかしどれだけ進んでも、文章が完結してもなお、湖の実際の規模を知るすべはない。
ただ理解できるのは、この凍りついた水面が途方もなく広いということだけだ。
先に述べたドキュメンタリー番組で、氏の作品「早春」(『群像』2019 年 9 月号収録)が取り上げられた。
番組内では、被災地を訪ねたのちに書かれた作品であり、主人公の心境を通して氏の小説や創作に対する見解が綴られている、という文脈で紹介されていた。
確かにそう読むこともできる。しかし私にとって、とある小説家が渇望に駆られて放浪するこの小説は、氏の欠落の取り扱いかたをはっきりと認識した作品である。この文章を綴るためにやむなく再読したが、今でもおそろしさを拭うことができない。
この短い小説の最後の一文が、私の内部にさえも欠落を生じさせた。
一言で、さびしい、と表現すれば近似することができるが、実際にはもっと深く、決定的で、埋めることのない虚ろが存在している。
この欠落は痛まない傷だ。悪化はしないが治癒もしない。春の温みにも融けない氷そのものだ。私はときどき手を当てて、その存在を確かめる。そして、沼田真佑という人物のなかに宿っているであろう欠落について考える。
大いなる欠落を飲み込み、それを言葉に変えてみせる氏の内側には、どれほど広く冷たく凍った湖があるのだろう。
もしも、万が一、それを覗き込んでしまったなら、私は何を失うのだろうか。