見出し画像

世界って、両手をいっぱい広げても足りないくらいに広いのよ



人生の分岐点があの時だったと
思い返せる人は
どれくらいいるだろうか?


今どこかのコミュニティの中で
ひっそりと悩みを抱えている方々には
特に読んでほしいのだが、
私は砂利道を舗装して
自ら分岐点を作り、渡ったことがある。


夜中なのでこっそり申し上げると、
私は中学時代友人が少なかった。


特にいじめられていたわけでも無かったし
部活動にも所属していたのだが、
休み時間はずっと本を読んでいた。


家でも外でも、
本を読むか、
誰にも見せやしないのに小説を書いていた。


友人は少なからず居たが、
正直中学の思い出は擦れてセピアである。


まあその頃は自分自身に興味が無かった。


服は兄のお下がりだったし
わざわざ買ってまでスカートは履かないし
髪は母がそうしなさいと言ったように
短くしていた。

髪を伸ばしてみたいという
気持ちはあったが、
反発してまで伸ばす気は無かった。


そんな私の分起点は、
中学3年生の春であった。


ちょっぴりファニーなきっかけだが
真面目に話すので聞いて欲しい。


母親にお笑いライブへ
連れて行って貰ったことである。



我が家は元々お笑いにとっても優しい家庭で
「エンタの神様の
放送日だけ夜更かししても良い」
という謎ルールがあった。

それから、M−1は毎年必ず家族で
それはもう熱狂的に観戦していた。
(あまり話すと年齢がバレそうなので
この辺で)


でもそれは全部テレビの中の話だった。

初めてライブを見た時、
あの日から私の世界は広がった。


初めてのライブは
知名度の高い人が出ていて
少しお高いライブだったのだが、
どうやら大阪の若手芸人が集う
地下の劇場はもっと安く観れるという
情報を得た。


私はそれをきっかけに
どっぷりとハマってしまったのである。


中学生の時分、1人で観に行くことが
許されなかった箱入り娘の私は
イベントがある毎に母についてきて貰っていた。


その時、私は他のファンである
お姉様方を見て、
ビビった。


私はとてもちんちくりんで、
お姉様方は開催されるイベントに対して
それはもう意気込んでいた。

とってもお洒落をしていて、素敵だった。


私は自分の好きな服を選ぶようになった。

カントリー系の、
可愛いワンピースを手に入れた。


それから、
毎日夕方、
日替わりで行われていた
若手芸人ラジオにメッセージを送りまくった。


文章を考えることは好きだったので
全く苦ではなかった。

その時運命的に、唯一部活がない木曜日に
ラジオをやっていたGAG少年楽団(後のGAG)
の沼に、私は足から頭まで
呼吸が出来ない程浸かってしまったのである。


所謂推しメンができると、
今度はその話が出来る仲間が欲しくなった。


熱と勢いだけで行動した。

SNSを通じて同じファンと繋がった。

そして他の界隈にも
似た儀式があると思うが、
そう言った仲間たちは
一緒にライブに行ったりグッズを交換したり
お互いの信頼と共に仲を深めていくのである。


必然的に、
コミュニケーション能力を身につけた。


私はお笑いライブに通う為、
高校で部活動には入らなかった。


そして毎日ラジオに投稿して、
狂ったようにライブへ行った。

3年間で、どんどん友達が増えた。


それから、身につけたコミュニケーション能力で
学校生活は卒なく、しかし大人しく過ごした。


高校3年生。


進路を決める時、
私はラジオの構成作家になりたいから
専門学校に行きたいと言った。

それくらい私は
人生の中でお笑いの存在が大きかったのだ。


紆余曲折あり
私は小説を書く大学へ進学する道を選んだが、
高校時代、
青春をお笑いに捧げた後悔は全くない。


先日、
この「お笑い」という
コミュニティで仲良くなった
友人と昔の話をしていて、
この記事を書かなければ、と思ったのだ。


私はこんな些細なきっかけで
今もよく連絡を取る友人を何人も得た。


今の道を残したまま、
広げてみるという選択肢は無いかい?

分岐点が見つからなくて
立ち止まってる人がいるならば、
自ら舗装して作ってみてはどうだい?


まるで芸人を志した理由を
聞かれたのかというくらい
熱く語っているが、
これは私がどれだけ
お笑い好きかという話ではない。


人生が変わった瞬間が
たまたま少しファニーだっただけである。

よろしければサポートをお願い致します!頂いたサポートに関しましては活動を続ける為の熱意と向上心に使わせて頂きます!