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001 星野道夫『森と氷河と鯨-ワタリガラスの伝説を求めて-』

星野道夫のこと

1952年生まれ。慶応義塾大学経済学部を卒業後、アラスカ大学野生動物管理学部に入学。以後はアラスカを生活のベースとし、写真家、そして文筆家として活動。1996年8月8日、カムチャッカ半島での取材中に、ヒグマの事故により急逝。享年43歳。

この本の著者、写真家・星野道夫のことを、私は確か2年ほど前に、偶然本屋で著書を見かけて知った覚えがあります。それ以降、本屋で名前を見かけるとつい買ってしまうほど大好きな人になりました。
彼の主な活躍の舞台はアラスカの中でも、住む人がほとんどいない厳寒の地。そこは氷河とオーロラの世界であり、カリブーやシロクマ、グリズリーやオオカミ。セイウチ、そしてアザラシ、クジラ。そんなどこか遠い世界の生き物が当たり前に暮らしている、ほとんど手付かずの土地です。その姿をあまりに飾りっ気なく、そして悠然と捉えた彼の写真の数々は、こんな生き物が私と同じ星に暮らしているのか…という不思議な気持ちを覚えさせます。そしてその写真に劣らず彼の文章もまた、読む人の心を感動させる強い力を持っています。

この本のこと

この本の主軸は『ワタリガラスの伝説』です。
私はワタリガラスという鳥自体に馴染みがないのですが、60センチほどの大型のカラスで、北半球の広くに分布し、日本では北海道への渡り鳥として観察されるそうです。
星野道夫は、この本の第一章で、次のようにそのテーマを提示しています。

『ワタリガラスの神話……そのことが気にかかるようになったのはいつの頃からだろう。クリンギット族、ハイダ族にとどまらず、アサバスカンインディアン、そしてエスキモーに至るまで、なぜワタリガラスが人々の創世神話の主人公なのか。この世に光をもたらし、人間を造ったというワタリガラスとは、人々の心の中で一体何者なのか。ぼくは長い間不思議でならなかった。』(本からそのまま引用)

広い土地に点在するルーツの違うはずの人々が、なぜ同じワタリガラスの創世伝説を語るのか。
それを探る旅は、アラスカ先住民(インディアン)のクリンギット族の子孫である、ボブ・サムとの出会いで始まります。友人を南東アラスカの港町、シトカに訪ねた折、偶然街角で紹介され知り合うのですが、その最初の会話は印象的で、しかもどこか運命的です。ボブは、突然紹介されたこの日本人の顔を表情一つ変えずじっと見つめ、いきなりこう言うのです――「今日、墓地でワタリガラスの巣を見つけたよ……」

ボブの持つ民族的なアイデンティティは、アメリカでの人種差別の問題に直結しています。彼の人生の凄惨な面は本の中でもあまり多く語られませんが、紆余曲折の末、生まれ故郷であるシトカで彼の始めた静かな行動が、周囲の人々や社会にいつしか多大な影響を及ぼしていく様子は、心に強く残ります。また、星野道夫自身にとってこの人物がいかに大切な友人だったかが、彼を描写する愛情深い目線から伺えます。
そしてそのボブのクラン(家系※)こそ、この本のテーマである、ワタリガラスなのです。

※インディアンはそれぞれの家系の始まりを、さまざまな動物が化身したものであったとする信仰を持つ。それらはワタリガラス、クマ、クジラ、ハクトウワシなど、多岐にわたる。

星野道夫が数年間気になり続けていたワタリガラスの伝説のルーツ。それを探る旅の始まりに、ワタリガラスを先祖に持つというクリンギットインディアンの男ボブと偶然に出会うということ自体が、すでに暗示的です。そしてそのボブの語る伝説が通奏する中、物語はトーテムポールを巡る物語へと続いていきます。

トーテムポールとは、先住民たちが、自らのクランや、所有する伝説を木彫りで表現した塔(ポール)で、多くにはさまざまな動物が彫られています。
これらを、私たちは今でも博物館に行けば見ることができます。ただし、腐食しないよう管理され、ガラスケースに保管された展示品としてならです。
でもいつか、かつてと同じように自然の中にあるトーテムポールを見てみたい。星野道夫の心の中にはこんな思いがありました。そんなあるとき、こんな話を聞きます。
―100年以上前に無人になった、クイーンシャーロット島のとある村の跡には、自然のままのトーテムポールが今も残っている―
そしてこの本で描かれる旅が始まる2年前、彼はクイーンシャーロット島を訪れ、朽ち果てて森に呑み込まれてゆきながら、かつての古い魔法を失うことのないトーテムポールに出会います。そしてその2年後、古い伝説を心に持ち続けるボブとともに、もう一度そこを訪れるのです。

形を残すことは大切なことでもあります。私たちは目に見えるもの、手に触れるものから、その実体を知るからです。それが跡形もなく消えてしまったとき、私たちはそこへアクセスする可能性を失います。
そしてそのことへの恐れが、トーテムポールという時間とともに朽ちていく木の文化の形を、そのまま残していきたいという矢印になっていくのだと思います。
けれど、トーテムポールという目に見え、手に触れるものだけが全てだと言えるのか。それは、作った人々の生活、信仰、土地、そして時代と結びついており、そこから切り離して捉えることはできないのではないか。それもまた、一つの自然な問いです。
目に見えるものに価値を置く社会と、見えないものに価値をおくことのできる社会。本の中で、星野道夫はその交わることのできない二つの違いに思いを馳せます。後者の思想にたまらなく魅かれながら…。

心の中に守っていくことでしか残せないものがあり、それを継承することは実体を持つものを残すことなんかよりずっと困難で、そしてずっと大切なことなのかもしれない。読みながらそんな風に思う章でした。

終わりに

星野道夫の言葉は、非難したり主張したりすることがないように感じます。厳しい自然の中に生き、それを心から愛しながら、自然を排し人間の快適性を追求する潮流にも共感を持っている。そんな文章だと感じます。もはや中立にあろうという意識すら、彼にはなかったのではないでしょうか。
彼は世界中のたくさんのコミュニティに家族のように、あるいは客人として入っていきます。それらコミュニティは、自然保護の団体から研究者、インディアンやイヌイットなどの氏族まで、それぞれ立場も主義も様々です。にも関わらず、彼はそれぞれの人と人間関係を築くのです。それも決して研究対象としてでなく敬愛する友人として、心底から相手を好きになって。
こんな人間の在り方を、この人はどうやって身に着けていったんだろうか。彼の本を読むたびに、思うことです。

では、また次回。

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