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【今日のこと】心に響いたワンシーン

ハリーポッターの映画を一作目から続けて観るチャレンジ中だ。
時間のある内に、やりたかったが出来なかったことをやろう、ということである。
それが遊びであっても、だ。

初めてハリーポッターと賢者の石を映画館で観たのは中学生の頃で、魔法使いの物語に心を鷲掴みされたのをはっきりと覚えている。

映像の中の出来事なのに、それが本当にあることのようだった。
わたしたちが生活する世界のすぐそばに、こんな風に魔法使いたちが生きている。
それがまるで当たり前のように信じられる、素晴らしいファンタジーだった。

しかし、賢者の石から始まり、秘密の部屋、アズカバンの囚人と、ハリーポッターの新作は「一年に一度」だ。
次回作を観る頃には、前作がどんなだったか、どんな物語からの続きなのかが分からなくなることが多々あった。

わずかな「?」の塵が積みあがった挙句、山となってしまった。
最終作の死の秘宝は、どんな話だったか一割も思い出せない。

そこで、一気に観てやろう、と。
最低でも一日一作、ぶっ続けで観て、ハリーポッターの人生をなぞってみたい。

意気込んで賢者の石は順調に鑑賞し、秘密の部屋の終盤で、ダンブルドア校長の言葉に思わずじーんとしてしまった。

「なぜ帽子はグリフィンドールに入れたか」
「…僕が頼んだから」
「その通りじゃよ。そこが、君とヴォルデモートの違いじゃ。自分が何者かは能力で決まるのではない。どんな選択をするか、じゃ」

ハリーポッターと秘密の部屋 ダンブルドア校長の台詞

グリフィンドールの生徒でありつつも、ハリーポッターにはスリザリンへの適性があることも客観的事実と言えた。

自分の中のスリザリン的な力が、悪い結果をもたらしたり、仲間を危機に巻き込んでしまうことに悩むハリー。

本当に、グリフィンドールの生徒であると言えるのだろうか。
組み分けは、やはり間違っていたのではないか。
でも誰かに、「そんなことはない」と言い聞かせてほしい。

第三者からの確固たるお墨付きがほしい、と落ち込んでいたハリーに、ダンブルドア校長は逆に問いかける。
ではなぜ、組み分け帽子は君をグリフィンドールへ入れたのだ?

ハリーの答えは、彼にとっての「後ろめたさ」だっただろう。
「僕が頼んだから」
誰かに許されたわけでも、誰かに推してもらえたわけでもない。
最終的には、「自分がグリフィンドールに入れてくれと頼んだから」それを聞き入れてくれたに過ぎない。

しかし、それにダンブルドア校長は強く頷いた。

ハリー自身が、そうしたいと願った。
グリフィンドールに入りたいと願った。
それこそが、ハリーがヴォルデモートと決定的に異なる一点なのだと。

そうだ。
そうだよ、ハリー。と、わたしはダンブルドア校長と共に頷く。

あなたが選んだということが、あなたが「そうである」ことの最も大切で確かなものなのだ。

ハリーだけではない。
物語の中の彼らだけでなく、現実のわたしたちにも言える。

自分が何者かは能力で決まるのではない。どんな選択をするかだ。

与えられたものを、置かれた場所で咲かせるだけが、あなたを示す価値ではない。

あなたが選ぶこと。
それも、あなたが望んで、あなたが勝ち取る、あなたの人生だ。

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